2007年03月22日

豹変する欧米の態度

教師としてきた西洋の低い道徳レベル

 英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌1」から、
写真前列中央が東郷元帥左端は秋山真之首席参謀
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引用開始
 日本の進歩が経済的、行政的、科学的、人道的なものにすぎなかった間は、ヨーロッパは日本に対して、賢くて熱心な大学生の宿題を見るように、暖かい眼で眺めていた。ところが、この少年が完全な軍人として姿を現したとき、ヨーロッパの態度は変わり始めた。
 過去三十五年間に四度の戦争があった。最初は1894〜5年に中国に対して行われた。朝鮮に関する両帝国の長い間の論争を解決するためになされたものであった。
 この戦争によって、日本は、シナ帝国(清)に政治力があると考えられていたが、実は水の泡にすぎず、ぷつりと穴をあけると消えてしまうものであることを証明した(ヨーロッパは、とうの昔にこのことに気がつくべきであった)。宣戦を布告して一年もたたぬうちに、中国は大きな賠償金を支払うとともに、遼東半島を日本に割譲せねばならなくなった。

 しかし日本は、それだけでは未だヨーロッパの完全な尊敬を得るに至らなかった。ロシアは当時恐るべき軍事力を持つ強国と考えられていたが、遼東半島を自分のものにしたいと考えた。そこでロシアは、従順な同盟国フランスと、ベルリンの宮廷(これは代々の友情の絆によってセント・ペテルスブルグの宮廷と結びついていた)を招集した。この三国が共同して、中国本土の領地は少しでも割譲することを禁じた。日本はこのような三国連合の干渉に直面する用意もなく、台湾島だけで満足しなければならなかった。

 日本の憤激は大きかった。勝利を得た喜びも捨て去られた。特に幻滅の悲哀を感じさせられたのは、ドイツがこの不浄な同盟に参加したことであった。ドイツは日本の官界が常に賞讃し模範としていた国であり、その敵対的妨害は、日本にとって青天の霹靂であった。

 中国領土の不可侵のためにドイツが干渉した真意は、二年後に明らかとなった(1897年)。ドイツは隣の膠州湾を奪ったのである。
 明治天皇治世における第二回目の軍事遠征は、1900年(明治二十三年)に起った。北京にいた少数の外国人が、圧倒的多数の敵に対して防衛している光景を世界中の人びとが仰天して眺めていたとき、連合軍の中の日本分遣隊が、真先に救助に乗り込んだのであった。

 このように、ヨーロッパの軍人に直接接触したことによる付随的な結果の一つは、日本人をしてヨーロッパを尊敬する気持を減少せしめた。すなわち、科学において、或は応用技術において、教師として尊敬してきた西洋が、自分たちよりも道徳的に少しも良くないということ――実際に劣っているということを発見したのである。
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posted by 小楠 at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A