2007年03月16日

クリントンの三不支持

 クリントンと江沢民の蜜月

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
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引用開
 銭(外交部長)の回顧録によると、李登輝訪米後しばらくして、クリストファー国務長官が銭に一つのメッセージを送った。1995年8月、ブルネイで行われるASEAN地域フォーラムの期間中に、双方の外交部長の会合を手配する、そのさいにクリントンから江沢民に宛てた重要な書簡を手渡したいというのである。
1995年8月1日、中国軍が台湾海峡で第一波のミサイル発射演習を終えた三日後、クリストファーと銭其琛はブルネイで会った。・・・・・

1,クリストファーはまず、クリントンから江沢民宛の書簡を手渡した。書簡には次のように書かれていた。
アメリカは一つの中国政策を続けます。三つのコミュニケを遵守し、『二つの中国』と『一つの中国、一つの台湾』の主張に反対し、台湾の独立に反対し、台湾の国連加盟に反対します」と述べている。(この書簡の内容は銭の回顧録『外交十記』からの引用である。これがクリントンの台湾に対する「三つの不支持」を示す最も初期の文献と思われるが、銭は中国の伝統的な手法で「不支持」を「反対」と訳したようだ。クリントンの回顧録『わが人生』では、ここの部分は避けており、記述はない)

2, クリストファーは銭に「アメリカは中国と体等のパートナーシップを結ぶことを切望している」と言った。

3,クリントンはクリストファーに権限を授け、中国側に「遠くない将来に江沢民主席をワシントンに招待したい」旨を告げた。

 このときアメリカは、天安門事件の対中制裁が終了しておらず、国家元首の訪問に扉を開くことは、中国の重大な人権侵害に青信号をともしたに等しい。・・・・

(国務副長官の)タルノフが八月二十五日、北京に到着したとき、中国軍は第二波のミサイルと火砲の実弾演習をもって彼に対する「歓迎礼」とした。
 タルノフは先例に従ってこれを恭しく受け、実弾演習にかんしては一言も発言しなかった。彼は江沢民宛の書簡のなかでクリントンが表明した対台湾「三つの不支持」を重ねて述べ、クリントン大統領から権限を授けられているとして、「台湾当局の指導者の訪問にかんするアメリカ側の制限措置」を知らせたのである。
 その内容は、
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posted by 小楠 at 07:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の国際関係