2007年03月07日

公使夫人と明治日本4

大津事件当時の日本

写真はフレイザー夫妻の箱根の別荘
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 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本」という本から、有名な大津事件、ロシア皇太子が襲撃された時の記述を掲載して見ます。

引用開始
1891年6月・東京
 五月十一日、もっとも恐ろしい打撃がこの不運な国を襲いました。そして数週間が過ぎた今でさえ、それ以外のことを考えることも話すこともでません。ご来日があれほど熱望され、その歓待には帝国が万策を尽すこととなり、その人にはかつていかなる外国の王子も受けたことのない栄誉をと、天皇陛下がお考えになっておられたあのロシアの皇太子殿下が、沿道の警備にあたっていた巡査のひとりに襲われ、瀕死の重傷を負われたのです。・・・・・

 ロシア皇太子は琵琶湖をご覧になるため京都を出発されていました。この湖の近辺の周遊の際にたいてい基地とされる大津という名の小都市で、県知事とともに昼食をとられました。その地方の道路では馬車が通ることができないので、皇太子と随員たちは、一台をふたりの車夫が引く人力車にお乗りになりました。・・・・
 道の両側には任務遂行に信頼が置ける選り抜きの警察官たちが短い間隔をおいて並んでいました。しかし彼等の働きが現実に必要となることなど、誰も夢にも思いませんでした。少しの妨害も受けることなく、外国人がこの帝国の端から端まで旅行できるということが、新生日本の自慢なのです。その上、この外国人は、敬愛される天皇陛下の賓客なのでした。

 並んでいた警官のなかに津田三蔵という男がいました。かつて陸軍曹長だった男で、西南戦争での働きによって勲章も受けています。・・・・
 皇太子が彼の前を通られた時、彼はそのすばらしい日本刀を抜き、皇太子の頭へ必殺の打撃を加えようとしたのです。
人力車はかなりの速度で走っていたため、刀は滑って帽子を切り、そのままもう一箇所に傷を加えたのです。
 
 それから津田自身が倒れた時、刀も地面に落ちたのです。というのは、車夫のひとりがかじ棒を降ろして巡査に素手で飛びついていったためで、もうひとりの車夫はその刀をつかんで、暗殺者が最初の車夫と格闘しているあいだに、彼にはげしく切りつけたのです。皇太子ご自身は、流れる血で眼が見えなくなりながらも、人力車のかじ棒が降りた時に飛び降りられ、知事や他の日本の役人たちが乗っている人力車の方へ走られました。ただちに知事は皇太子に手を貸し、かたわらの開いていた店の中へとお連れしました。一方、行列は大混乱に陥っていました。護衛たちが津田に飛びかかり、捕り押さえました。・・・・
そして翌朝早く、国じゅうの悲嘆と憤慨の騒乱のなかを、天皇陛下ご自身が供奉員全員をしたがえ、京都へむかわれました。・・・・
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posted by 小楠 at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A