2007年03月06日

公使夫人と明治日本3

明治日本の子供たちのしつけを見て

 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本」という本から、日本の子供たちについて、クリスマス・パーティーに招待した時に見た「しつけ」についての記述のひとつを引用してみます。
写真は当時の英国公使館
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引用開始
1891年(明治二十四年)1月・東京
 前年のクリスマスに招待した公使館内の子供たちと同様、今度集まった日本の小さな子供たちもこの飾りに目を見張り、ずいぶん喜びました。
 館の大広間の奥に、大きな階段が三回折れ曲がって四角い空間をつくっているところがあり、いつもはそこに鉢植えや安楽椅子が置いてあるのですが、それらをのけて、ツリーを据えたのです。・・・・・
 
 このような準備は、お客様全員が到着し、私たちの東京の仲間が勢ぞろいするまでは、カーテンで玄関のホールからいっさい見えないようにしてありました。そして、合図とともに、陰に隠れていた合唱隊が古いクリスマス・キャロルを歌い始めてから、カーテンが開かれ、光のピラミッドが煌々と輝きわたったのです。この世のものではないかのような眺めに、広間の隅から隅まで歓声が響きわたりました。それを耳にして、私も、またこの厄介で疲れる準備を快く助けてくれた多くの友人も、すっかり報われた気がしました。

 その後は私たちのささやかなプレゼントを配る仕事でした。――何しろ親たちのほかに子供だけで少なくとも二百人はおりましたから、気を遣いました。それから後の光景はツリーにも負けないくらい美しく思われました。
 私たちの家はこのような集まりをするには少々せまく、一階の使える部屋はすべて大人のお客様用の食堂にあてられました。そこで、子供用の食事は、一階大広間の端から端までを見おろす三階の回廊に並べることになりました。回廊は緑葉の輪飾りと数々のランタンで装いをこらし、そこに各国の子供が並んで坐り,ボンボン(球糖菓)やクラッカーを食べながら仲良しになったのです。・・・・

 子供の美しい大部隊の周りにたいへんな数の大人が群がっていましたので、ほとんど給仕が行き来できないほどでした。けれども、ヨーロッパの子供はしっかり自分たちで食べ物にありついていましたし、日本の上流階級の子供たちの方は人前では物を食べないのです。彼らは礼儀上、ボンボンをつまむことはあっても、知らない人の前で食べ物に執着したり食べたりすることは、作法に反するのです。

 ついさきごろまで彼らは、自分たちの宴席のご馳走というものは、美しい折り詰めにして馬車に運ばれたり、引き揚げた後、自宅へ届けられたりするものと考えていました。その習慣のなごりのおかげで、私は宮中の盃をかなり収集することができました。主人のヒューが天皇陛下の昼食や晩餐にあずかる時は、かならず盃のひとつが御料紙に包まれて馬車のなかまで運ばれるのです。それぞれわずかなデザインの違いはありますが、いずれも、金の菊花をあしらった透き通るほど薄い白磁でできています。・・・・
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚から真実を