2007年03月09日

イザベラ・バード1

日光金谷家とホテル

 皆様よくご存知の、英国婦人イザベラ・バードの「日本奥地紀行」の、1878年(明治十一年)六月十五日から始まる、「日光 金谷家にて」という部分があります。この日光金谷家は現在の日光金谷ホテルの前身で、現在のホテルの「歴史の紹介」ページにもイザベラ・バードが宿泊したことが載せられています。
では「日本奥地紀行」から金谷家に関する部分を少しご紹介します。
画像は当時の金谷家
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引用開始
 私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。これは、美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の目を楽しませてくれぬものは一つもない。宿屋の騒音で苦い目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほんとうに心をすがすがしくさせる。家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。庭園はよく設計されており、牡丹、あやめ、つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。・・・・

 金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側はよく磨かれている。玄関も、私の部屋に通ずる階段も同じである。畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る。ここから美しい眺めが見られる。・・・・・

 金谷さんは神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である。しかし彼のやる仕事はほとんどないので、自分の家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事となっている。彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今までに会った日本の婦人のうちで二番目に最もやさしくて上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。
 彼女が家の中を歩きまわる姿は、妖精のように軽快優雅であり、彼女の声は音楽のような調べがある。下男と、彼女の男の子と女の子を入れて一家全員となる。金谷さんは村の重要人物で、たいへん知性的な人である。・・・・・

 近ごろ彼は、収入を補うために、これらの美しい部屋を紹介状持参の外国人に貸している。彼は外国人の好みに応じたいとは思うが、趣味が良いから、自分の美しい家をヨーロッパ風に変えようとはしない。・・・・
 個人の家に住んで、日本の中流階級の家庭生活の少なくとも外面を見ることは、きわめて興味深いことである。

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posted by 小楠 at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年03月08日

新日中戦争シナリオ

日中戦争は北京オリンピックの一年後

 古森義久氏の著「凛とした日本(ワシントンから外交を読む)」という本から、国防音痴日本への警告にふさわしい部分を引用してみます。
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引用開始
 「中国が日本にミサイルを撃ち込み、尖閣諸島への攻撃を開始した。アメリカの新大統領は日米安保条約の発動を拒み、日本を支援しないと言明した。2009年7月のことだ――」
 こんな悪夢のような新「日中戦争」のシナリオが明らかにされた。
 アメリカで2006年6月、ペンタゴン(国防総省)の元高官二人が共著で刊行した『ショーダウン』(対決)という書の内容である。同書は中国人民解放軍の実態と、その基礎となる中国の対外戦略の特徴を分析している。その副題に「なぜ中国はアメリカとの戦争を欲するか」と記されたように、同書は中国のいまの強烈な軍拡が、やがてはアメリカと対決するためだという前提から、具体的な人民解放軍の現実を論じ、シミュレーション(模擬演習)の形で予測される軍事シナリオをいくつか打ち出していた。現状に基づく近未来フィクションと呼んでもよい。

 この書『ショーダウン』の著者の一人ジェッド・バビン氏は先代ブッシュ政権の国防副次官だった。空軍将校の出身で弁護士活動から著作活動まで幅広い領域で活躍しているが、軍事問題にくわしい。
 もう一人の著者エドワード・ティムパーレーク氏もレーガン政権時代の国防総省の動員計画部長だった。先代ブッシュ政権では退役軍人問題担当のホワイトハウス高官にも任命された。海軍士官学校卒業後に海兵隊将校となり、戦闘機パイロットまで務め、議会下院の軍事問題スタッフを歴任、中国軍事関連の著書も今回のほかにすでに刊行している。だから少なくとも軍事全般や中国の軍事動向には詳しい二人の筆者たちなのである。

 さてこの書『ショーダウン』は九章からなるが、そのちょうど真ん中の第五章が「中国と日本の戦争」とされ、日中両国の本格的な軍事衝突のシナリオが2009年1月20日を出発点として描かれる。その前年のアメリカ大統領選挙では民主党リベラル系の女性政治家が勝利を飾り、初の女性大統領に就任してホワイトハウス入りしたという想定である。
 そこから始まる日中戦争のシナリオの要点を紹介しよう。

「日本の首相がアメリカの女性大統領に尖閣諸島の至近海域で中国とロシアの海軍が合同で大演習を始めたことを告げ、アメリカとして中国とロシアにその中止を求めることを要請する。だが同大統領は『対中関係が大切だから中国を刺激したくない』と断る」
「中国では北京オリンピックを成功裏に終えたが、貧富の差が広がり、失業者が急増した。共産党政権は人民の不満を抑えようと、国内ではナショナリズムを高揚させ、外部では周辺諸国、とくに日本への覇権行使を行い、『中国人民は日本の首相の靖国神社参拝を中国への戦争行為だとみなす』と宣言する」
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posted by 小楠 at 07:22| Comment(4) | TrackBack(1) | 書棚の中の国際関係

2007年03月07日

公使夫人と明治日本4

大津事件当時の日本

写真はフレイザー夫妻の箱根の別荘
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 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本」という本から、有名な大津事件、ロシア皇太子が襲撃された時の記述を掲載して見ます。

引用開始
1891年6月・東京
 五月十一日、もっとも恐ろしい打撃がこの不運な国を襲いました。そして数週間が過ぎた今でさえ、それ以外のことを考えることも話すこともでません。ご来日があれほど熱望され、その歓待には帝国が万策を尽すこととなり、その人にはかつていかなる外国の王子も受けたことのない栄誉をと、天皇陛下がお考えになっておられたあのロシアの皇太子殿下が、沿道の警備にあたっていた巡査のひとりに襲われ、瀕死の重傷を負われたのです。・・・・・

 ロシア皇太子は琵琶湖をご覧になるため京都を出発されていました。この湖の近辺の周遊の際にたいてい基地とされる大津という名の小都市で、県知事とともに昼食をとられました。その地方の道路では馬車が通ることができないので、皇太子と随員たちは、一台をふたりの車夫が引く人力車にお乗りになりました。・・・・
 道の両側には任務遂行に信頼が置ける選り抜きの警察官たちが短い間隔をおいて並んでいました。しかし彼等の働きが現実に必要となることなど、誰も夢にも思いませんでした。少しの妨害も受けることなく、外国人がこの帝国の端から端まで旅行できるということが、新生日本の自慢なのです。その上、この外国人は、敬愛される天皇陛下の賓客なのでした。

 並んでいた警官のなかに津田三蔵という男がいました。かつて陸軍曹長だった男で、西南戦争での働きによって勲章も受けています。・・・・
 皇太子が彼の前を通られた時、彼はそのすばらしい日本刀を抜き、皇太子の頭へ必殺の打撃を加えようとしたのです。
人力車はかなりの速度で走っていたため、刀は滑って帽子を切り、そのままもう一箇所に傷を加えたのです。
 
 それから津田自身が倒れた時、刀も地面に落ちたのです。というのは、車夫のひとりがかじ棒を降ろして巡査に素手で飛びついていったためで、もうひとりの車夫はその刀をつかんで、暗殺者が最初の車夫と格闘しているあいだに、彼にはげしく切りつけたのです。皇太子ご自身は、流れる血で眼が見えなくなりながらも、人力車のかじ棒が降りた時に飛び降りられ、知事や他の日本の役人たちが乗っている人力車の方へ走られました。ただちに知事は皇太子に手を貸し、かたわらの開いていた店の中へとお連れしました。一方、行列は大混乱に陥っていました。護衛たちが津田に飛びかかり、捕り押さえました。・・・・
そして翌朝早く、国じゅうの悲嘆と憤慨の騒乱のなかを、天皇陛下ご自身が供奉員全員をしたがえ、京都へむかわれました。・・・・
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posted by 小楠 at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年03月06日

公使夫人と明治日本3

明治日本の子供たちのしつけを見て

 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本」という本から、日本の子供たちについて、クリスマス・パーティーに招待した時に見た「しつけ」についての記述のひとつを引用してみます。
写真は当時の英国公使館
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引用開始
1891年(明治二十四年)1月・東京
 前年のクリスマスに招待した公使館内の子供たちと同様、今度集まった日本の小さな子供たちもこの飾りに目を見張り、ずいぶん喜びました。
 館の大広間の奥に、大きな階段が三回折れ曲がって四角い空間をつくっているところがあり、いつもはそこに鉢植えや安楽椅子が置いてあるのですが、それらをのけて、ツリーを据えたのです。・・・・・
 
 このような準備は、お客様全員が到着し、私たちの東京の仲間が勢ぞろいするまでは、カーテンで玄関のホールからいっさい見えないようにしてありました。そして、合図とともに、陰に隠れていた合唱隊が古いクリスマス・キャロルを歌い始めてから、カーテンが開かれ、光のピラミッドが煌々と輝きわたったのです。この世のものではないかのような眺めに、広間の隅から隅まで歓声が響きわたりました。それを耳にして、私も、またこの厄介で疲れる準備を快く助けてくれた多くの友人も、すっかり報われた気がしました。

 その後は私たちのささやかなプレゼントを配る仕事でした。――何しろ親たちのほかに子供だけで少なくとも二百人はおりましたから、気を遣いました。それから後の光景はツリーにも負けないくらい美しく思われました。
 私たちの家はこのような集まりをするには少々せまく、一階の使える部屋はすべて大人のお客様用の食堂にあてられました。そこで、子供用の食事は、一階大広間の端から端までを見おろす三階の回廊に並べることになりました。回廊は緑葉の輪飾りと数々のランタンで装いをこらし、そこに各国の子供が並んで坐り,ボンボン(球糖菓)やクラッカーを食べながら仲良しになったのです。・・・・

 子供の美しい大部隊の周りにたいへんな数の大人が群がっていましたので、ほとんど給仕が行き来できないほどでした。けれども、ヨーロッパの子供はしっかり自分たちで食べ物にありついていましたし、日本の上流階級の子供たちの方は人前では物を食べないのです。彼らは礼儀上、ボンボンをつまむことはあっても、知らない人の前で食べ物に執着したり食べたりすることは、作法に反するのです。

 ついさきごろまで彼らは、自分たちの宴席のご馳走というものは、美しい折り詰めにして馬車に運ばれたり、引き揚げた後、自宅へ届けられたりするものと考えていました。その習慣のなごりのおかげで、私は宮中の盃をかなり収集することができました。主人のヒューが天皇陛下の昼食や晩餐にあずかる時は、かならず盃のひとつが御料紙に包まれて馬車のなかまで運ばれるのです。それぞれわずかなデザインの違いはありますが、いずれも、金の菊花をあしらった透き通るほど薄い白磁でできています。・・・・
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2007年03月05日

公使夫人と明治日本2

中国観や皇后陛下の慈善事業

 今回ご紹介しているのは、1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本という本です。
 彼女の日本に対する気持は「回想録」のなかで、「私のふたつのほんとうの故郷、日本とイタリアでは、美がしっかりと生きています。それは、たんにあなたが目にするひとつのみごとな景色のことではなく、風景にふれることと啓示を受けることが一体になりうるということです。自然は或る瞬間に何かを語りかけます。それはあなただけにたいしてであり、和音が言葉に置きかえられないように、翻訳できないものです。しかし、それは明晰で、ごまかしようもなく、神々しいものなのです・・・」という言葉に表れているでしょう。では、書簡風のこの本から。
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引用開始
1889年6月・中国観や皇后陛下の慈善事業
 東京で出されている新聞のひとつに、「日々新聞」というのがありますが、最近、日本と中国の相互関係について、きわめて公正な評論を発表しております。
 私がそれに興味を持ちますのは、私たちがこちらへくる前に、ずいぶん長く中国にいたからです
 船でただの五日の隔りでしかありませんが、中国はこれまでのところ、現代の日本についてはっきりした考えを持っているとは、けっして申せません。中国は、自分より年若いこの国民にたいして、一定の威張った気持を捨て去ることができないのです。たしかに日本は、かつて中国の熱心な生徒ではありました。しかし何度も主張されていますように、けっして中国に貢ぎ物を運ぶ国ではなかったのです。

 「日々」の記者は、中国問題を扱う際に慎重さがなによりも必要であると力説します。というのは、中国はなかば嫉妬から、またなかば日本への軽蔑から、いつでも喧嘩の種を拾いあげる態勢にあり、これは双方にとり、きわめて不都合なことになりかねない、と言うのです。
 他方、日本は中国と闘っていまだ負かされたことがないという誇らしい自意識と、隣国が日本をゆえなく軽蔑しているに違いないという不快な確信とを合体させているとものべています。喧嘩はさし迫っているように思われますが、記者は賢明にも、同胞にたいして、それが双方になんの益ももたらさないこと、

 そして西洋列強に、調和を回復させるという名目で、領地を奪い影響力をのばす機会をあたえるだけだということを想起させています。中国人は、現代の日本人とは、ほとんどなにも共通のものを持たないように思われます。そして、そして、私たちが「天上国」の外交官たちに公式の晩餐会で会いますと、彼らは休戦旗を掲げて敵中に暮らす人々といった風情で、しかも、そのような事態をけっして喜んではいない、という印象をあたえます。・・・・・・・
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posted by 小楠 at 07:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年03月03日

公使夫人と明治日本1

1890年3月・雛祭り

 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本という本から、特に今日がひな祭りの日なので、目次の順を無視して、静養先の熱海の旅館での場面とひな祭りに招待された時の記述を少し掲載してみます。
写真は著者メアリーと雛祭りでの華族の少女
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引用開始
 私がある華族の名家の少女を訪問していた時のことです。それは彼女の母親が主催する招待日で、きれいな茶会テーブルの上の茶碗のかたわらに、雛祭りにだけ用いられる濃い白酒の小さな瓶がいくつか並んでおりました。
 私がその部屋に入って二、三分にもならないころ、彼女が言いました。「人形をご覧になられますでしょうか? 別の部屋においで下さる労をおかけしますことをどうかお許しください」。そしてこの日のヒロインである五歳の小さな女の子は、私の前に立って案内するのでした。

 彼女は瑠璃色の縮緬を着ていましたが、その裾は淡い青に、肩は濃い紫をおび、かわいらしい模様の刺繍が金糸でほどこされ、高貴な緋と金の帯がしめられていました。頭上につややかに結いあげられた髪は、宝石をちりばめたピンで止められ、そしてまるいふたつの頬には紅がやや目立って掃かれていました。
 完璧に落ち着きはらって彼女は私の手を取り、奥の間へ導いてくれました。

 そこですばらしい光景に目を奪われたのです。深紅の綾で覆われた階段状の棚に幾百もの人形が並べられ、もっとも熱心な人形愛好家のみが夢想しうるような家具や調度も揃っていました。
 いずれの組も、天皇と皇后は廷臣全員にかこまれて玉座に坐っているのです。将軍も大臣も楽師、舞い手たちも皆、はるか昔の衣裳です。腰掛けや床机、絵の描かれた屏風、金蒔絵の什器、そして楽器や武具、すべてが、西洋のもっともすばらしい骨董品をも凌ぐ、あくなき出費と凝りに凝った仕上げでつくられているのです。

 このようなみごとな骨董品にまじって今出来のフランスやイギリスの人形が置いてあるのは、妙な気がします。でもこの小さなレディーはコスモポリタンな趣味の持ち主で、ネジをまかれると歩いたり歌ったりする生き物をとくにめでるのでした。これらのお雛様たちすべてを讃嘆し、それらをみごとに並べたことについて、彼女にお祝いの言葉を言った後、私は彼女に、この厖大な数の人形のなかでどれがお気に入りかしら、とたずねてみました。
 まことの日本人の血を受けつぐ彼女は、ただちに、この前のクリスマスに私からもらった湯舟に浮かぶ陶器の赤ん坊を指さしました。それから一瞬ためらった後、フランス公使夫人から届けられた豪華なパリ娘の人形を指したのでした。・・・・・・・

 日本の女の子! 彼女はあまりに多くの魅力的な矛盾をもつ生き物です。暖かい心と敏捷な頭脳、それでいて恐ろしくせまい経験。第二の天性となった従順さと控え目。それでいて彼女のもともとの天性が再び優位に立ち、勇気が慣習より強すぎる時の、彼女の勇敢な反抗・・・・・

 私が読んだ日本についての書物はつねに、庶民の、かわいい茶店の少女ムスメーや、芸術家にして踊り子、かの機知に富む日本の聡明な高級娼婦ゲイシャについて、じつに多くのことを語っていました。でも思うに、ミュージック・ホールの歌手がヨーロッパの慈善修道女を代表しえないように、こういったムスメーやゲイシャは普通の日本女性を代表してはいないでしょう。このような女性たちが西洋の同等の階層よりもはるかに不快でないのは、疑いもなく、日本の女性の生来の洗練によるのです。・・・・
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posted by 小楠 at 08:07| Comment(10) | TrackBack(3) | 外国人の見た日本A

2007年03月02日

モースの日本観察6

子供の親切な扱いは世界一

モース著の「日本その日その日2」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。今回もまた日本の子供たち、学生たちのことが書かれています。モースのご紹介はこれで最終にします。
スケッチは当時の人力車
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引用開始
 昨日の午後、実験室を出た私は、迷子になろうと決心して、家とは反対の方へ歩き出した。
 果して、私は即座に迷子になり、二時間半というものは、誰も知った人のいない長い町々や狭い露路をぬけて、いろいろな不思議な光景や新奇な物を見ながら、さまよい歩いた。
 晩の五時頃になると、人々はみな自分の店や家の前を掃き清めるらしく、掃く前に水をまく者も多かったが、これは若し実行すれば、我国のある町や都会を大いに進歩させることになる、いい思いつき、且つ風習である。

 帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市が立っていた。並木路の両側には、各種の仮小屋が立ち並び、そこで売っている品は必ず子供の玩具であった。
 仮小屋の番をしているのは老人の男女で、売品の値段は一セントの十分の一から一セントまでであった。子供たちはこの上もなく幸福そうに、仮小屋から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々見ては、彼等の持つ僅かなお小遣いを何に使おうかと、決めていた。

 一人の老人が箱に似たストーブを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖――つまりバタア(麺粉、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの)――の混合物を入れた大きな壷が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上がると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする

 台所に入り込んで、しょうがパンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麺の幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供のよろこびようを心から理解することが出来るであろう。・・・・
 老人の仮小屋は移動式なので、彼は巨大な傘をたたみ、その他の品々をきっちり仕舞い込んで、別の場所へ行くことが出来る。これは我国の都市の子供が大勢いる所へ持って来てもよい。これに思いついて、貧乏な老人の男女がやってもよい。
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posted by 小楠 at 07:42| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年03月01日

モースの日本観察5

熱心な学生たち

モース著の「日本その日その日2」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。ここでは上野の教育博物館や大学の学生について、そして有名な大森貝塚発見の最初の記述などが見られます。
スケッチは発掘品の一部
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引用開始
 九月十一日、大学の正規な仕事は、今朝八時、副綜理ドクタア浜尾司会の教授会を以て、開始された。・・・・午後には先任文部大輔が、大学の外人教授たちを、上野公園の教育博物館へ招いて接待した。・・・・・
 我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分の一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。・・・・・

 いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部屋へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品のご馳走があり、芽が出てから枯れるまでを通じて如何に植物を取扱うかを知っている世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞賛に価するもので、この整頓した教育博物館で、手のこんだ昼食その他の支度を見た時、我々は面喰って立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。・・・

 九月十二日、私は最初の講義をした。・・・・私の学級は四十五人ずつの二組に分かれているので、一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。私はもう学生達に惚れ込んでしまった。これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。・・・・・
 特に注目に価するのは、彼等が、私が黒板に描く色々な動物を、素早く認識することである。これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、貧乏な者もあるが、皆、お互いに謙譲で丁寧であり、また非常に静かで注意深い。
 一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、まるで女の子の学級を受持ったような気がする。・・・・

貝塚発掘の様子
 横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の貝墟であると知った。私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた。・・・・・

 当日(十月十六日)朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。・・・・我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸で貝塚を発見したことや、ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就いて、簡単に話して聞かせた。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A