2007年03月31日

日本文化の紹介

西欧植物園の半分くらいは日本の植物

 いよいよ3月も終わり、たいていの会社では新年度を迎え、期末、期首で大変忙しい時期でしょう。今日はちょっと息抜きの記事を・・・
 1922年アメリカ生まれのドナルド・キーン著「果てしなく美しい日本」という本の中から、第二部の平成四年七月二十日、夏季講座富山会場における彼の講演「世界の中の日本文化」の部分を引用してみます。
写真は1890年の亀戸天神
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引用開始
 いちばん有名な医者、ドイツのシーボルト(1796〜1866)の話です。シーボルトは1823〜1829まで、いちばん長く出島に滞在した医者です。彼は特別に優れた医者で、幕府もいやいやそれを認めて長崎の町に出てもいいという特別許可を与えました。長崎の町に彼の病院ができ、彼はそこで日本人に医学を教えたのです。日本の洋式医学の伝統はここから始まったのです。

 シーボルトは、あらゆることに関心を持つ男でした。三、四年前、東京上野の博物館でシーボルトの展覧会があったのですが、それを見た私は驚きました。すごい人だというほかありません。彼の関心はすべてのものにわたっていて、日本にいて外国にはいない狼などの動物の剥製を作らせました。植物もそうです。植物の場合は絵を描かせるだけでなく種もヨーロッパへ持っていきました。現在ヨーロッパにある植木のかなりの数は、実はシーボルトの持っていった種から成長したものなのです。

 あじさい、あやめ、つつじ、ゆり、さくらなど、こういう植物はそのころまで、ヨーロッパでは知られていなかったものなのです。今でもヨーロッパの大きな植物園、例えばロンドンの植物園などに行くと、その半分くらいは日本の植物で、シーボルトが種を持っていったものなのです。
 また、日本の建築は外国に知られていなかったので、そのさまざまの模型を作らせました。百ほどにもなります。美術もヨーロッパに知られていなかったため、ある画家にオランダの紙を渡して絵を描かせました。その画家は葛飾北斎(1760〜1849)です。まさに先見の明があったというほかありません。

 北斎が描いた絵は、現在オランダやフランスに保存されています。とにかく、シーボルトはあらゆるものに興味を抱き、そのときはまだ知られていなかった日本を外国に紹介し、日本の文化がどれだけ優れているかを説明したのです。
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2007年03月30日

侵略の頭目イギリス

当時のイギリス人の常識

 今回引用している本のタイトルは大東亜戦争前の昭和十二年に発行された武藤貞一著「英国を撃つ」でした。そのタイトル通り、この本は当時の世界で、不自然なイギリスの繁栄を、その酷烈な覇業によるものとして、日支事変中もその真の敵はイギリスであると説いているのです。この本からの掲載の最後として、その「序」から引用します。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
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引用開始
・・・・イギリスは印度を奪い、印度の黄金を吸収し、それによって更に他の領土をかすめ取る資本とした。イギリスの肥満と繁栄は何を措いても第一に印度の恩恵によるものであって、イギリスが肥満し繁栄した分だけ印度は痩せ細り、困苦に陥って来た勘定である。
 恐らくイギリス人の常識を以ってすれば、印度はイギリスの富源吸収用としてつくられた国土としか考えられないだろう。三億五千万の印度人は、何のために、縁もゆかりもないイギリスに対して忠誠な奴隷をもって甘んじなければならないかに就いては、恐らく如何なる国際法学者を拉し来っても解釈し得ないであろう。

 印度人はヨーロッパ大戦に引出され、イギリスのために独墺軍と善闘した。だがそれによって何を得たか。自治の空名は得たかも知れぬが、現に印度大衆は衣食住の『衣』の大宗たる綿布を筆頭に、多くの日用品種目にわたって、わざわざ廉価の日本品を避け、高価なイギリス品を押しつけられている。直接生活に対する圧迫、これより大なるはないのだ。これとて、印度人は、なぜ遠く離れたヨーロッパの島国人のためその生活を封鎖されねばならぬか。なぜ生活苦甘受を厳命されて服従しなければならぬかという理由を説明し得るものはないはずだ。しかもこれはひとりイギリス対印度関係に止まらず、千三百二十万方里のイギリス帝国全版図にわたる共通の現象なのだ。

 現世界は、この驚くべき矛盾、途方もない不自然が平然と看過されているところから、百の酷烈なる不幸を生じつつある。イギリスは、目覚めかかった印度を空軍の爆弾によって抑えつけ、この現状を維持するに内心必死の姿であるが、表面は何食わぬ顔をして、なおその侵略の毒牙に支那を引かきまわっているのである。
 侵略世界の凄惨は、むろんイギリスひとりによって来るものでないことはわかっている。ただイギリスがその頭目であるという事実を如何ともし難いのである。この意味で、われわれはまずイギリス帝国を以て世界の禍因と断言するに憚らない。
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2007年03月29日

抗日の拠点香港

対日作戦拠点としての香港
 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
ここでは真の侵略国がイギリスであることを強調しています。
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引用開始
 日支事変をもってイギリスは日本を侵略国と誣い、アメリカその他の国を駆って盛んに反日行動を続けている。国際連盟を動かしたが効目がないので、次に九カ国条約会議をベルギーで開かせ、ここで日本制裁の段取りに取りかかった。いま直ちに日本を共同の力で叩こうといっても、随いて来る国が少ないのを見越して、しばらく毒針を嚢の中に収め、先ず日本を侵略者とする国々の勢揃いを終わったというところである。・・・・
 事を一挙に決することなく、都合がわるければ何度でも休み、いつまでも待ち、粘り強く目的を達成するのが老獪極まるイギリスの常套手段だから、こういう国に狙われた日本は、それだけの覚悟をしてかからねばならぬ。日本人の一徹短慮を見抜いて居れば居るほど、イギリスはその得意の手口でやって来るのだ。

 日本の対支行動を侵略呼ばわりするイギリス自身はどうかというと現在の世界の千三百二十万方マイルをその領土としている。あたかもそれはソ連が八百二十万方マイルの大領土を持ちながら、日本などを侵略主義の国家と罵っているのと同様、自分のやっていることを全然棚に上げている。
 もし万一にも日本がソ連の首都モスコーを二、三時間で空襲できる地点まで領土を拡張したら、その時初めてソ連は日本を侵略国と言うがよい。現にソ連はわが東京へ二、三時間で、空襲できるところまで領土を押進めて来ているではないか。

 イギリスの場合もそれと同じで、香港は英本国から一万何千キロか離れ、しかもここに莫大な金を投じて武装を施しつつあるのである。これを逆にして日本がイギリス本国の直ぐ目の先にかかる軍事的根拠地を獲得したら果して何というだろうか。関係は同じことであって、イギリスの苦痛はやっぱり日本に取っても苦痛である。
 今や日本は目と鼻の間に武装せるイギリス海空軍の一大根拠地を控えているわけで、その脅威感は甚だしいものがあるのだが、図々しいイギリスは、まるであべこべに日本の行動を侵略なりとして世界的弾圧を食わせようとしている。世の中にこんな間違った話が二つとあるわけのものではない。
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2007年03月28日

いわれなき侵略国

最大の侵略国イギリス

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
ここでは日本が侵略国と呼ばれる言われは全くないことを述べています。
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引用開始
 日本は四海の窓を閉じて鎖国の檻の中に逼塞していたが、浦賀湾頭の砲声、鎖国まかりならぬというので余儀なく国を開いた。そして、やっと白人先進国の国家体制を学んで一本立ちの国家になりかかると、もう移民の閉め出しだ。アメリカやカナダやオーストラリアや、不思議に人の足りない土地ほど日本移民を入れない。日本はそれを甘受した。一方大陸からは強露の重圧を受けこれと血闘半世紀間に及ぶ。日露戦争は朝鮮防護のために戦った。

 朝鮮の南端までロシアの勢力が延び、釜山に露兵が駐在するようになっては、日本は安全だとは言い難い。切羽詰っての日露戦争だったのである。その結果、天佑にも日本軍が勝って、満洲の北端まで露国勢力を押遣ることが出来たのだが、この満洲の粛清地区へ、爾後の三十年間、日本が二十万の人口を送る間に、支那はその百五十倍の三千万の移民を送った。そしてその満洲で抗日排日をはじめ、日本人の居住権まで剥奪しそうになったので、日本はたまらなくなった。そこで満州事変が起ったのだ。

 さてこの事変が起って見ると、蒋介石の中央政府は、日本を唯一の仮想的として全支武装に着手し出した。対日戦備の完成にまっしぐらの進軍だ。満洲が独立したのを、日本の侵略行為と称し、日本を大陸から駆逐する世論で世界を動かそうとした。一方外蒙古も、新彊もソ連に奪られてしまったことはおくびにも口に出さない。チベットは既に全くイギリスの領土と化しているが、そのイギリスをソ連と同じく絶大な援護者と頼んで、対日制圧に死に物狂いの状態を続けて来た。・・・・・
 日貨ボイコットは政府の命令で公々然と行われる。日本人は頻々として殺される。ここまで押詰められて、とうとう勃発したのが今度の支那事変なのである。・・・・

 支那事変は、測らざるに勃発し、想わざるに発展した。つい今春、ソ満国境の風雲慌だしきものがあったとき、日ソ戦争こそ日本として覚悟せねばならぬものと考えられ、危機を目睫の間に控えた観があったのであるが、日支戦争の如きは全く予想外のことだったのである。・・・・
 さて、蒋介石は、以上のように日本国民(軍当局を除く)がとかく軽信していた以上の対日戦備を整えて、だしぬけに日本に戦いを挑んで来た。それが盧溝橋不法射撃の第一弾であり、日本の出先当局が時の冀察政権を相手にして成るべく局地的に解決を図ったが、これを一図に日本の弱腰と見て取った蒋介石の政府は、今こそ日本に一撃を加える好機到るとなし、続々大兵を北上集中させ始めた。一方和平の交渉も無誠意を極め、蒋介石の戦意は既に牢乎たるものがあったのである。・・・・・
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2007年03月27日

支那に先行される外交

軍事行動と外交工作の跛行(バラバラなこと)

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
 ここは、丁度現在アメリカで行われている日本非難の宣伝戦を意識して、支那事変当時も同じように外交宣伝下手な日本であったことを見てみます。
支那は昔から、嘘、捏造宣伝で世界の同情を煽ってきたことがよく判ります。
(旧仮名使いや漢字は現代風にして引用します)
参考記事

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引用開始
 日本はこれまで色々の形態のもとに対外行動を経過して来たが、それに付随する欠陥というものは決まって同じものだった。即ち軍の行動は国民によって全幅の支持が払われ、神速機敏を極めるにも拘わらず、そのあとを承る政治工作、それを掩護する外交工作は萎微として振わない。そこへ、よろずの集中射撃を蒙って、測らざる煮え湯を飲まされる結果となる。
 今度の支那事変こそ、政府が進んで挙国一致の体制を整え、十分の覚悟を定めてかかったから、国家行動の二人三脚にチグハグの欠陥を暴露することはないと思われた。然るにやっぱりこれが色々の形で現れたのは遺憾である。

 第一には宣伝不足という形で現れた。主として外交方面の手抜かりであるが、事変の当初、支那の勢いなお未だ盛んな際、第三国が比較的静かに事態の推移を眺めているのに安心してか、能動的に事変の真相を世界に宣伝することを怠ったといえないならば生ぬるかった。
 初めに支那側の宣伝が前の満洲・上海事変のときほど猛烈でなかったのは、大体この事変は支那側がイニシアティヴを取って起った事件だけに、たとえば上海の盲目爆撃といい、非戦闘員攻撃といい、彼よりも吾れに宣伝材料が多く、受身の立場に最初立ったものは支那側でなかったことに原因を発しているのだ。

 殊に上海の如きは、日本側に全然戦意なく、その戦意のないところをつけ目にして、彼は計画的に邦人皆殺しと居留地域占領を目指して事を構えたものであることは、上海に在る第三国人全部の内心認めているところであり、寡兵の陸戦隊がよくこれを支え得るかどうかを気遣わないものは一人もなかったといえよう。
 かかる日本側の苦戦状態に際し、支那側の宣伝が珍重されるはずがない。即ちこの時機において日本側が大いに宣伝して、機先を制し世界の世論を確立して置くべきだった。

 アメリカ人は比較的単純な国民性だけに、最初から日本側に理解を持っていた。故に早期において、このアメリカだけでも味方に引き入れて置くだけの外交工作が日本として是非必要だったのである。
 何といっても、いざという場合、日本にぶつかり得る実力を持つ国家はソ連とアメリカがあるだけで、爾餘の国々は少しも恐れるに及ばない。ただソ連がアメリカを誘い入れる策動だけが警戒されるのであって、それを除いては、他の国々が騒ぐとも蛙鳴蝉噪の類としていいのである。
 そのアメリカが日本に好意ある態度に出ていたのであるから、このくらい日本に取って好調子はなかったのだ。

 イギリスが自国の支那における利権に火がついたかの如く騒ぎ、ヒューゲッセン事件で強硬抗議を突きつけた頃、日本はアメリカの公正な態度に対して謝礼使節を送るか、国民的デモンストレーションの一つも催して大いにそれに答えるゼスチュアを為すべきだった。所詮両立すべからざるイギリスに向って大いに諒解を求めるの愚を演じ、せっかく好意を持ってくれるアメリカの方はいいことにして放って置くという拙劣極まる外交工作が、その後に来るものをどのくらい不利にしたか知れないのである。
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2007年03月26日

支那の大嘘を許すな

通州事件もデマから起った大惨劇

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
 ここは、丁度現在アメリカで行われている日本非難の宣伝戦を意識して、支那がいかに昔から世界に向けて嘘、捏造の宣伝謀略を使ってきたかがよく判ります。
 現状、日本と日本人の名誉のためにも、支那人の嘘をいつまでも許しておく訳には行かないでしょう。
(旧仮名使いや漢字は現代風にして引用します)
参考記事

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引用開始
 そこで支那のデマ戦術についてだが、武力戦において勝目のない支那が、宣伝の方に全力をあげるは少しも不思議でない。日本はそれに憤激するよりも、当然支那の手口がそこへ及んで来ることを予期して、これに備えていなければならぬところだ。要するに、宣伝上手の支那を制圧するに足るだけの宣伝機関を整備するのが事変に際しての用意であるべきだった。・・・・

 通州事件は議論でなく現実に支那側のデマから起った大惨劇である。これを未然に防ぎ得なかったことはいかにも残念であるが、それはしばらく措き、すでにかかる残虐行為が続出された以上は、日本側でもっとこの実情を世界に知悉させるべきではなかったか。 実を言えば、この事件一つを世界に宣伝しただけでも、支那の鬼畜にも劣る、非人道的振舞は徹底するわけであり、かてて加えて、上海支那空軍のめくら爆撃という絶好の材料が揃ったにも拘らず、何故か当局のなすところは因循不徹底を極め、日頃やれ国民外交の、官僚独裁のといっている文化人・学者・ジャーナリストの一団が、かかる機会を捉えてこそ大いに世界に呼びかけるべきであるにも拘らず、低声微温にして何者にも怖れ恥ずるがごとく動かなかった。この卑屈な態度がわが一部の知識層にあるということは、その後の時局の移り変わりに、目に見えざる悪影響を及ぼしたことは実に測り知るべからざるものがあるのである。・・・・・

 支那軍は現にダムダム弾を使用し、上海戦線では毒ガスを用いた形跡さえあるのだ。立場をかえて、これが日本軍だったらどうであろうか。日本海軍は南京軍事施設爆撃に際しあらかじめ余沫の外人と市民に及ぶなきやを恐れて、その避難を勧告した。決して退去命令を発したわけでも何でもない。全く武士道精神による思い遣りからであったが、本来空襲は敵の虚を衝くこそ常則であって、あらかじめ時日を指示して空襲を警告するなどいうことはあり得ないことなのだ。そのあり得ないことを忍んでしたのは、わが海軍としてよくよくのことである。

 然るに外国人はこんな日本人特有の武士道は到底理解し得ないところから、この勧告は南京市街地に潰滅的爆撃を加える前触れのごとく曲解した。即ちそうでなければこんな親切な勧告をわざわざ発する筈がないと彼らは彼らの心性を持って判断した。・・・・
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2007年03月24日

世界の中の日本文化

ヨーロッパより高い文化

 1922年アメリカ生まれのドナルド・キーン著「果てしなく美しい日本」という本の中から、第二部の平成四年七月二十日、夏季講座富山会場における彼の講演「世界の中の日本文化」の部分を引用してみます。
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引用開始
 ポルトガル人の中には、相当優秀な人がいました。いちばんよく知られている人は、後で聖人にもなったザビエル(1506〜1552)です。彼はこう書いています。「日本人は我々によく似ている国民である。同じ程度の文化を有する国民である」と。
 「よく似ている」という言葉はとてもおもしろいと思います。私たちの常識ではヨーロッパ人が日本に着いた場合は人種が違うと思ったはずですが、私が読んだかぎり人種が違うということが、どこにも書いてありません。それらしい表現は全然ないんです。それどころかヨーロッパ人によく似ているというふうに書いてあります。

 もう一つ印象的な表現は「同じ程度の文化を持っている」と。それはヨーロッパ人として、あまり言いたくない表現です。つまり、ヨーロッパ人の文化の中心は宗教で、日本にキリスト教がなかったのに「同じ程度の文化がある」というのは、ヨーロッパ人として言えそうもない表現のはずなのです。
 しかし、実際に日本文化の水準は、ヨーロッパ文化の水準よりも高かったと思います。高かったけれども、大きな欠点が一つあった。その大きな欠点はキリスト教がなかったということです。それで、「文化の程度がヨーロッパより非常に高い」、「文化のかなめとしてのキリスト教がない」の二つを合わせると、ヨーロッパと同じ程度になるとザビエルは思ったんじゃないか。このように私は解釈したいと思います。

 ヨーロッパの文化よりも水準が高かったという証拠はほかにもあります。
 日常生活から考えてもそうです。当時、ヨーロッパでは王様でも手で食べていました。食堂にはナイフがあったのですが、フォークはありませんでした。ザビエルの時代は十六世紀ですが、十八世紀の始めごろもまだ同じことでした。
 ヨーロッパの王様の中で自分は神だ、太陽と同じような存在だと思い込んでいたフランスのルイ十四世(1638〜1715)は、手でさいて食べていました。彼の食堂にフォークはちゃんとありましたけれども、彼は手で食べるのが紳士のやり方だと思っていたのです。手でフランス料理を食べることはあまり気持のいいものではないと思います。また、王様が食べて食べかすをそこに捨てる。食堂の中には犬がいて、犬がその残り物を喜んで食べたんでしょうね。私たちの常識ではきわめて非衛生的です。

 ルイ十四世はベルサイユの宮殿を完成し、文芸を保護しました。ベルサイユの宮殿は建築として最高にすばらしいものです。今私たちはベルサイユ宮殿を見て「フランス人はよくもこんなすばらしいものを十七世紀に作れたものだ」と思います。しかし、あまりきれいではありませんでした。具体的な話は避けますけれども、きわめて非衛生的なところだったと思っています。
 それと比較してみますと、日本のほうは衛生的なだけでなくて、一般の生活水準が高かったと思います。「同じ程度の文化」というのはザビエルの言葉ですが、私たちからみるときっと日本のほうがより生活しやすかったはずです。
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2007年03月23日

日本人の趣味

ほんものの平等精神

英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌2」から、芸術についてと貴族についての部分を見てみましょう。
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引用開始
 絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、日本人の趣味は渋み――の一語に要約できよう。大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、日本人の考え方のなかに見出すことはできない。
 東京や京都の住居では、座敷の床の間に一枚の絵画と一個の花瓶があってときどき取替えられるだけである。確かに絵も花瓶も素晴らしいが、西洋人と違って、「どうです、高価な品物がたくさんあるでしょう。私がどんなに素敵な金持ちであるか、考えてもごらんなさい」と言わんばかりに、この家の主人が財物を部屋いっぱいに散らばして置くようなことはないのである。

 高価なお皿を壁に立てかけて置くようなこともない――お皿は食物を入れておくものである。どんなにお金持ちでも、たった一回の宴会のために、1000ポンド、いや20ポンドでも切花のために無駄使いをするようなことはない――切花は単純な物で、しかもすぐ枯れて駄目になってしまう。
 家宝として宝石でも買えるような大金を花などに使ってしまうのはもったいないことである。しかも、この中庸の精神によって、いかに幸福がもたらされることか! 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)社会の隅々まで浸透しているのである。

 ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか――その国土にこそ共和政体のもつ質朴さが存在すると、私たちの父祖達は信じていたが、今や現代となって、私たちはその国を虚飾と奢侈の国と見なすようになった。それは、かのローマ帝国において、道徳的な衣の糸が弛緩し始めてきたときのローマ人の、あの放縦にのみ比すべきものである。

 しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、西洋との接触によって汚れてきた。渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、今では一般大衆の中に求めねばならない。――花をうまく活けたいと思うならば、わが家の下男に訊ねるがよい。庭の設計が気にくわない――どうも堅苦しすぎる。それかといって、自分で指図して直させてみると、ごたごたと格好のつかぬものになってしまう。そんなときには、相談役として料理番か洗濯屋を呼ぶがよい。・・・
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2007年03月22日

豹変する欧米の態度

教師としてきた西洋の低い道徳レベル

 英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌1」から、
写真前列中央が東郷元帥左端は秋山真之首席参謀
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引用開始
 日本の進歩が経済的、行政的、科学的、人道的なものにすぎなかった間は、ヨーロッパは日本に対して、賢くて熱心な大学生の宿題を見るように、暖かい眼で眺めていた。ところが、この少年が完全な軍人として姿を現したとき、ヨーロッパの態度は変わり始めた。
 過去三十五年間に四度の戦争があった。最初は1894〜5年に中国に対して行われた。朝鮮に関する両帝国の長い間の論争を解決するためになされたものであった。
 この戦争によって、日本は、シナ帝国(清)に政治力があると考えられていたが、実は水の泡にすぎず、ぷつりと穴をあけると消えてしまうものであることを証明した(ヨーロッパは、とうの昔にこのことに気がつくべきであった)。宣戦を布告して一年もたたぬうちに、中国は大きな賠償金を支払うとともに、遼東半島を日本に割譲せねばならなくなった。

 しかし日本は、それだけでは未だヨーロッパの完全な尊敬を得るに至らなかった。ロシアは当時恐るべき軍事力を持つ強国と考えられていたが、遼東半島を自分のものにしたいと考えた。そこでロシアは、従順な同盟国フランスと、ベルリンの宮廷(これは代々の友情の絆によってセント・ペテルスブルグの宮廷と結びついていた)を招集した。この三国が共同して、中国本土の領地は少しでも割譲することを禁じた。日本はこのような三国連合の干渉に直面する用意もなく、台湾島だけで満足しなければならなかった。

 日本の憤激は大きかった。勝利を得た喜びも捨て去られた。特に幻滅の悲哀を感じさせられたのは、ドイツがこの不浄な同盟に参加したことであった。ドイツは日本の官界が常に賞讃し模範としていた国であり、その敵対的妨害は、日本にとって青天の霹靂であった。

 中国領土の不可侵のためにドイツが干渉した真意は、二年後に明らかとなった(1897年)。ドイツは隣の膠州湾を奪ったのである。
 明治天皇治世における第二回目の軍事遠征は、1900年(明治二十三年)に起った。北京にいた少数の外国人が、圧倒的多数の敵に対して防衛している光景を世界中の人びとが仰天して眺めていたとき、連合軍の中の日本分遣隊が、真先に救助に乗り込んだのであった。

 このように、ヨーロッパの軍人に直接接触したことによる付随的な結果の一つは、日本人をしてヨーロッパを尊敬する気持を減少せしめた。すなわち、科学において、或は応用技術において、教師として尊敬してきた西洋が、自分たちよりも道徳的に少しも良くないということ――実際に劣っているということを発見したのである。
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2007年03月21日

日本人の清潔好き

日本の大衆は世界で最も清潔

 英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌1」から、
画像はモースの「百年前の日本」からです。
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引用開始
 清潔は、日本文明のなかで数少ない独創的なものの一つである。・・・
一般的に考察して、世界に冠たるこの日本人の清潔は、敬神と関係はない。日本人はきれい好きだから清潔なのである。彼らの熱い入浴は――というのは、彼らのほとんどすべてが華氏で約110度の非常に熱い湯に入る――冬は身体を温かくもしてくれる。生ぬるい湯は反作用として寒気を惹き起こすが、お湯がきわめて熱いときには、そういうことはなく、かえって風邪をひく心配もないのである。

 東京の町には銭湯(公衆浴場)が1100以上あり、毎日五十万人が入湯するものと算定される。普通料金は大人が六銭、子どもが三銭、乳児は二銭である。さらに、立派な人の家には、それぞれ浴室がある。他の都市には(村にも)同様の設備がある。いつもとは限らないが、一般的に言って、男女を別々にわける仕切りがある。浴場設備や自宅の浴室がないときは、人びとはたらいを家の外に出す(行水)。ただし、現代法規を実施する責任を持つ警官が近所を巡回して来ないときに限る。西洋人はわざとらしく上品ぶるが、日本人はそれにもまして清潔を尊ぶのである。

 ヨーロッパ人の中には日本人のやり方のあらを探そうとして、「日本人は風呂へ入ってから上ると、また汚い着物を着る」と言うものがいる。なるほど旧派の日本人には、毎日下着を替えるヨーロッパの完全なやり方などはない。しかし、下層階級の人でも、身体はいつも洗って、ごしごしこするから、彼らの着物は、外部は埃で汚れていようとも、内部がたいそう汚いということは、とても想像できないのである。日本の大衆は世界で最も清潔である。

 日本人が風呂に入る習慣の魅力は、この国に居住する外国人のほとんどすべてがそれを採用しているという事実によって証明される。温浴のほうが冷水浴よりも健康的であるのは、気候のためでもあるらしい。冷水浴を続けると、リューマチにかかる者もあり、熱を出す人もあり、絶えず風邪を引いたり、咳がとまらなくなる人もある。そこで、外国人はほとんどすべてが廻り道をして、結局は日本式に到達するのである。日本式の温浴に外国が寄与したものがあるとするならば、その主たるものは、個人専用浴室を使うことになったことであろう。
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2007年03月20日

明治の日本陸軍

古くから浸みわたっている民主的精神

 チェンバレンの著「日本事物誌1」は、「私は日本のことについて、常によく質問を受ける。そこで、その返事を辞書の形にして――単語の辞書てはなくて事物の辞書という形にして――本書をまとめたのである」という如く、事物毎の目次構成となっています。
英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。
「日本事物誌1」から陸軍についての部分を見ます。
画像二列目左から二人目が乃木大将、右がステッセル
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引用開始
 1600年から二世紀半の間、徳川将軍の強力な統治下において平和が続いたが、昔の軍事形態はそのまま維持されていた。それが明治天皇の治世の初頭(1868年)に突然、粉みじんに砕けた。このときフランスから軍事顧問団が招聘され、ヨーロッパ大陸の徴兵制度が導入されて、むかしの日本の騎士が身につけた、絵のように美しいが足手まといになる装飾に代わって、近代式の軍服が登場した。

 1877年(明治十年)薩摩の反乱(西南戦争)を鎮圧したとき、日本軍人は砲火の洗礼をあびた。日本軍人は日清戦争(1894〜5)において偉功を立て、外国の専門家たちを驚嘆させた。特に兵站部の組織は徹底的に行き届いたもので、峻烈な気候と貧しい国土にあって、敢然とその任務に当った。
 統率もまずく栄養も不良で、生れつき戦争嫌いの中国人は、逃走することが多かった。日本人の胆力を示す機会はほとんどなかった。しかしながら1894年9月15日の平壌の戦闘、続いて満洲に進軍し、同年11月に旅順を占領したのは注目すべき手柄であった。
 さらに1900年(明治三十三年)、北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、もっとも華々しい活躍を見せた(北清事変)。彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。彼らはもっともよく軍律に従い、被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。

 日露戦争(1904〜5)は同様のことを物語っている。日本は今や、その大きさにおいては世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。この事実には――事実と仮定して――さらに驚くべきものがある。それは、日本陸軍が作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない――フレデリック大王も、ナポレオンもいない。それは、狭い範囲以外にはほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。
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2007年03月19日

日本事物誌

英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。その後1910年(明治四十三年)から1911にかけて一度だけ来日したのが最後となり、1935年(昭和十年)ジュネーヴで死去しています。今回ご紹介するチェンバレンの著「日本事物誌1」は、
 「私は日本のことについて、常によく質問を受ける。そこで、その返事を辞書の形にして――単語の辞書てはなくて事物の辞書という形にして――本書をまとめたのである」という如く、事物毎の目次構成となっています。が、引用にあたって、1905年の序論に興味深い記述がありますので、そこから始めたいと思います。
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引用開始
 サー・エドウィン・アーノルドが東京に来たとき、官吏、ジャーナリスト、教授たちなど、事実上、最高級の現代日本人を代表する顕著な人々の晩餐会に招かれた。サー・エドウィンは、このもてなしに感謝して演説をした。その演説の中で、彼は日本を高く賞賛し(賞賛するのは当然だが)、地上では天国、或は極楽にもっとも近づいている国だと賞めた
 その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲であるが卑屈に堕することなく,精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである(これらは彼の言葉通りではなく、彼の一般的な趣旨を述べたものである)。

 ――さて、日本人はこのような讃辞の雨に対して、満足したと諸君は思うであろうか。少しも満足していないのである。晩餐会に出席した主要新聞の翌朝の論説は、サー・エドウィンの言葉が真実であることを認めながらも、その演説は賞讃を伝えるものではなくて、無慈悲な非難の言葉であることを指摘した。
 編集者はその中で叫んでいる。「なるほど、美術、景色、やさしい性質か! なぜサー・エドウィンは、巨大な産業企業、商業的能力、国富、政治的賢明さ、強力な軍備を賞めなかったのか。もちろん、彼は心の底からそのように言い切ることができなかったからである。彼はわれわれの本当の値打ちを評価したのである。要するに彼の言わんとすることは、われわれは単にかわいらしい柔弱者にすぎないということである」と。
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2007年03月17日

独立国台湾は自明の理

李登輝単独インタビュー

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
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引用開始
 クリントンと江沢民が密室で交わした会話のなかには、未公開の約束があった。クリントンの1995年8月の密書のなかにある「三つの不支持」を重ねて話し合ったことだ。
 自由の大国の元首が、奴役制度の独裁者とのあいだで、自由と民主の国、台湾の主権を犠牲にする取引を行うことは、チェンバレンとヒトラーがミュンヘンにおいてチェコを犠牲にした取引と、どう違うというのか。
 しかしながら、クリントンと江沢民は、台湾はチェコではなく、李登輝はチェコの大統領エドゥアルド・ベネシュでないとは予想だにしていなかった。
 李登輝がアメリカ在台湾協会主席理事のリチャード・ブッシュから、クリントン・江沢民の会談内容の簡単な報告を受けたその日(1997年11月6日)とその翌日、『ワシントン・ポスト』と『ロンドン・タイムズ』がつづけて李登輝に単独インタビューを行い、二つの特別記事はたちまち世界に報道された。そのなかで李登輝はこう述べている。

「われわれ台湾人民は、台湾が中国の一省であることに同意しない。台湾は台湾であり、われわれは一つの独立した主権国家です」(『ワシントン・ポスト』)

「台湾は北京を離れて自立しており、イギリスやフランスと同じように、一つの独立国家です」(『ロンドン・タイムズ』)

 これらを李登輝の「独立宣言」というなら、かぎ括弧をつけなくてはならない。というのは、李登輝は新たに独立の主張のたぐいを宣言しているのではなく、すでに自明の事実を述べただけだからである。これらの言葉は台湾に対する国際社会の無知を改めさせ、共産中国の歪曲を正し、共産中国の民主台湾に対する併呑を防止するものであり、不可欠かつ時宜にかなうものであった。・・・・・・・

 江沢民は李登輝から台湾を奪えないと見るや、クリントンに食い込み、クリントンを通じて李登輝を無理やり黙らせた。江はクリントンが「モニカ・ルインスキ・スキャンダル」に見舞われている機に乗じて、クリントンを中国に招待した(1998年10月の予定を6月に早めた)
 クリントンの訪中は九日間に及び、・・・しかもわざわざ中国一国だけを訪問し、同盟国である日本と韓国の訪問を断った・・・・
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2007年03月16日

クリントンの三不支持

 クリントンと江沢民の蜜月

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
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引用開
 銭(外交部長)の回顧録によると、李登輝訪米後しばらくして、クリストファー国務長官が銭に一つのメッセージを送った。1995年8月、ブルネイで行われるASEAN地域フォーラムの期間中に、双方の外交部長の会合を手配する、そのさいにクリントンから江沢民に宛てた重要な書簡を手渡したいというのである。
1995年8月1日、中国軍が台湾海峡で第一波のミサイル発射演習を終えた三日後、クリストファーと銭其琛はブルネイで会った。・・・・・

1,クリストファーはまず、クリントンから江沢民宛の書簡を手渡した。書簡には次のように書かれていた。
アメリカは一つの中国政策を続けます。三つのコミュニケを遵守し、『二つの中国』と『一つの中国、一つの台湾』の主張に反対し、台湾の独立に反対し、台湾の国連加盟に反対します」と述べている。(この書簡の内容は銭の回顧録『外交十記』からの引用である。これがクリントンの台湾に対する「三つの不支持」を示す最も初期の文献と思われるが、銭は中国の伝統的な手法で「不支持」を「反対」と訳したようだ。クリントンの回顧録『わが人生』では、ここの部分は避けており、記述はない)

2, クリストファーは銭に「アメリカは中国と体等のパートナーシップを結ぶことを切望している」と言った。

3,クリントンはクリストファーに権限を授け、中国側に「遠くない将来に江沢民主席をワシントンに招待したい」旨を告げた。

 このときアメリカは、天安門事件の対中制裁が終了しておらず、国家元首の訪問に扉を開くことは、中国の重大な人権侵害に青信号をともしたに等しい。・・・・

(国務副長官の)タルノフが八月二十五日、北京に到着したとき、中国軍は第二波のミサイルと火砲の実弾演習をもって彼に対する「歓迎礼」とした。
 タルノフは先例に従ってこれを恭しく受け、実弾演習にかんしては一言も発言しなかった。彼は江沢民宛の書簡のなかでクリントンが表明した対台湾「三つの不支持」を重ねて述べ、クリントン大統領から権限を授けられているとして、「台湾当局の指導者の訪問にかんするアメリカ側の制限措置」を知らせたのである。
 その内容は、
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2007年03月15日

米国対中戦略の転機

 人民を犠牲にしたカーターから逆転レーガンへ

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
(トウ小平のトウを漢字にすると何故か文字化けしますので、トウとしています)
 特にアメリカに民主党政権が出来た場合には、日本はより真剣に情報戦も含めた国防体制を充実しておく必要は、現在の米国内における慰安婦問題や南京映画などで一目瞭然です。
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引用開始
 カーター政権の「連中制ソ」(中国と連携してソ連を抑える)政策は、中国指導者の貪欲さと権勢欲を満足させ、台湾人民の生存と自由の権利を犠牲にし、トウ小平のベトナムへの軍事侵攻を黙認するものだった。共産中国に対するアメリカ政府の軟弱さ、ベトナム侵攻で暴露された中国軍の劣勢が、ブレジネフを増長させ、憚ることなく軍事覇権を世界に拡張し、1979年末には無法にもソ連軍がアフガニスタンに侵攻したのである。

 1980年の大統領選で、ロナルド・レーガンが再任をめざすジミー・カーターを破って第四十代大統領に当選したことは、第三(革新保台)の民主化の波に新たな力を与え、台米中関係のトライアングル・バランスを含めてアメリカの戦略に転機をもたらした。・・・・・・
 トウ小平は二つの策略を採用した。一方の手で保守派の建議を受け入れ、外交部に「大きなアクションを起してソ連にシグナルを送り、中ソ関係を大幅に改善するように努力せよ」と指示した。もう一方の手で、レーガン政権内の「親中反ソ」官僚を利用して、「アメリカと連合して台湾に圧力を加える」カーター時代の戦略を継続した。トウ小平が選んだ対米「統一戦線」の対象は、レーガン政権の初代国務長官アレクサンダー・ヘイグだった。・・・・・

 アメリカの国家安全保障会議(NSC)は六月初めに、武器売却禁止リストから中国を外すには、二ヶ月間の秘密保持が必要であると決議していた。中国軍の増強に直面する日本、台湾、韓国など東アジアの盟友に覚書通知をしなくてはならないからだ。にも拘わらず、ヘイグは、トウ小平を喜ばせたいために、六月十六日のトウ小平との会談後の記者会見で、アメリカは中国に最新の武器を売却する用意があると公表してしまった。・・・
 共産中国の常套手段は、アメリカ政府内の意見の対立を利用して、交渉におけるみずからの立場を優位に置いて最大の利益を得ようとするものだ。ニクソン時代は大統領補佐官のキッシンジャーとウィリアム・ロジャース国務長官との意見の相違、カーター時代は大統領補佐官のブレジンスキーとバンス国務長官の意見の相違を利用した。1981年のヘイグ訪中後、トウ小平は、ヘイグ国務長官と、レーガンに近いアレン補佐官らのあいだで対中戦略の見方に相違があることを知った。

 トウ小平は、ヘイグ国務長官を利用して、台湾への武器売却問題で突破口を開くことが、米台関係全体の防衛線を動揺させる鍵だと考えた。トウ小平がカーター、ブレジンスキーとの勝負で勝ったのは、「断交、米軍撤退、条約破棄」の三手であった。次の一局を勝利に導く三手は、「武器売却停止、台湾関係法廃止、統一圧力」、すなわち台湾問題の最終解決である。・・・・
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2007年03月14日

台湾民主化と独裁中国

蒋経国の台湾生き残り策は民主化転換

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
(トウ小平のトウを漢字にすると何故か文字化けしますので、トウとしています)
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引用開始
 トウ小平の包囲戦略に対して、最も力を貸したのはカーター政権だった。カーターは議会の圧力のもとで「台湾関係法」に署名したが、トウ小平の意に屈しており、「関係法」を遵守するつもりはなかった。
 カーターは表と裏の二つの手法をとった。議会を適当にあしらいながら、行政部門に機密のメモを通達して、台湾を封じ込めるトウ小平政権の覇権主義的要求を満足させた。そのメモには次のことが示されていた。

 アメリカの将校を含む上級官僚の台湾訪問を一切禁止する。アメリカ在台協会の駐在員と、台湾のなかの“敏感な”部門、すなわち総統府、行政院、外交部といった機関との公務の協議を禁止する。台湾駐米代表処の職員とアメリカの官庁との公務の協議を禁止する。また、アメリカの官庁や職員が台湾側に文書を送付するときは、機関名のついたレターヘッドの使用を禁止し、役人の名前を出してはならないとしたが、このような文書を「ノン・ペーパー」と言った。
 中国共産党の独裁者にしか考え出せない手管だが、カーター大統領はこのような禁止規定をすべて受け入れ、大統領の行政命令として米台両国の役人をこれに従わせた。・・・・・・

 蒋経国がトウ小平の「アメリカと連合して台湾に圧力を加える」包囲のなかで、勝に転じることができたのは、包囲突破のために打ったいくつかの手にあった。

一、蒋経国は「接触せず、交渉せず、妥協せず」の確固とした姿勢をもってトウ小平の「国共第三次合作」と「八十年代の統一スケジュール」に回答した。・・・・・
 蒋経国は、はっきりとトウ小平の「国共和平会談」提案を拒否しただけでなく、・・・・略・・・
 レーガン大統領宛の手紙で、共産中国は種々の手段を使って台湾を国際的に孤立させている。台湾は米中関係の邪魔者であるとして、アメリカが「台湾関係法」を破棄し、台湾に対する武器売却を停止し、台湾が平和統一の話し合いに応じるべく企図しているが、自分は絶対に共産中国と交渉しない決心であると訴えている。

二、行政当局の裏切り行為に対して、カーター政権を牽制し、台米間の実質的な関係を維持・保護するよう、議会や民意に訴えた。
 影響力をもつ人間をアメリカに派遣し、議員や各界の友人たちと今後の台米関係を話し合わせ、議会や世論に支持を訴えさせた。その結果、台湾の境遇に対して広範な同情と支持が得られ、カーターの間違った政策は厳しく批判された。
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2007年03月13日

クリントンの奴隷根性

自由の世紀における荒唐無稽な話

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
(トウ小平のトウを漢字にすると何故か文字化けしますので、トウとしています)
 なお、現在同盟国である日本やトルコまで貶める決議をしようとしているのもアメリカ民主党議員であることを考慮に入れてご覧下さい。
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引用開始
 荒唐無稽なパフォーマンスはカーター大統領が始めた。「人権大統領」と称されるカーターは、中国共産党が人権を踏みにじっているのを見て見ぬふりをし、トウ小平と手を組み、1978年12月、ワシントンと北京で台湾人民に不意打ちを加え、台湾との「断交、米軍撤退、条約破棄」を世界に宣言し、台湾を国際社会の中で孤立させたのである。
 そのころの台湾は、国民党一党独裁下の「党国専制」であり、おりしも台湾人民が、「大陸に反攻する」という口実のもとで、この党国政府が戒厳令統治を行っていることに反発していた。

 「人権大統領」カーターは、自由、民主、人権を勝ち取るための台湾人民の戦いを支持しなかったばかりか、共産中国が台湾併呑のために準備していた軍事覇権拡張に青信号をともしたのである。このようなやり方は、国民党という外来政権の暴政を終わらせるために奮闘していた台湾人民を、こんどは共産党という外来政権の暴政下で奴隷状態に陥れる企みだったと言えないか。
 それ以上に荒唐無稽なパフォーマンスは、その後登場したクリントン政権時代に演じられた。
 
 クリントンが大統領に就任したとき、ソ連帝国はすでに崩壊しており、もはやアメリカは中国と手を組む必要はなく、天安門事件後に成立した江沢民政権は安定していなかった。クリントンは、1992年の大統領選では「バグダッドから北京までの暴君」に真剣に立ち向かうと発言していた。・・・・・・
 ところが、クリントンは、ソ連消滅後の世界をリードし、自由に邁進するという、歴史が彼に与えた最良のチャンスをとらえることなく、逆の選択をして歴史の潮流に逆らい、中国の共産党独裁政権と「建設的・戦略的パートナーシップ」を結び、中国の新しい奴役制度の台頭に迎合し、新たな「バランス・オブ・パワー」を築いた。・・・・・

 荒唐無稽な芝居は、1998年北京で、翌99年にニュジーランドのオークランドでクライマックスを迎えた。1998年6月27日午前9時、クリントンは江沢民の権勢欲を満足させるため、上院が30対16で中止を勧告したにもかかわらず、9年前に学生と平民が虐殺された広場において、江沢民と肩を並べて人民解放軍を閲兵したのだ。・・・・・
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2007年03月12日

日本の歴史的役割

憲法、教育基本法、日米安保の見直しを

 阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」をご紹介します。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
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まず本書の日本語版への序文から見てみましょう。
引用開始
 台湾がかつてのオーストリアやチェコに相当する立場におかれているとすれば、日本は当時のイギリスに相当するのである。ナチスドイツが台頭したばかりのとき、ヨーロッパの民主主義国家が、チャーチルが主張したように同盟を結び、十分に武装してヒトラーに対抗し、オーストリアとチェコの自由を擁護していれば、戦争は回避されていたかもしれない。ちょうど大戦後のNATOが、ソ連―東欧共産帝国の拡張を阻止したように。
 いまや中国のミサイルは台湾に向けられているだけでなく、日本やアメリカにも向けられている。中国の長距離弾道ミサイルは、太平洋を越えてアメリカ大陸全土に達しうるのである。・・・・・

 日本はちょうど(大戦前)当時のイギリスと同様の戦略的位置にある。中国の新奴役制度に直面している自由民主主義大国であり、歴史はこの地において、パワーを呼び込み、これを結集して人類の自由を擁護する勇敢なリーダーの登場を必要としている。日本が独力で、あるいはアメリカの保護に頼って消極的に行動するだけでは、中国の新奴役制度の拡張を阻止することはできない。
 日本は1930年代のイギリスがナチスドイツの台頭を容認したように、奴役制度の専制暴君に「刺激」を与えまいとして、共産中国の覇権拡張の増長に手をこまねいているのだろうか。歴史の教訓は、奴役制度の拡張の阻止をためらってはいけないと教えている。共産中国が民主台湾を併呑してしまい、周辺国家が中国の奴役制度に恭順を示すまで待っていたのでは、さらに甚大な代価を支払うことになろう。・・・・・

日本が歴史的役割を果たすのは、次の四点においてである。

[一]アジアにおける自由と民主主義の大国となる。そのためには、アジア太平洋地域の自由と平和を擁護し、中国の新奴役制度の覇権拡張を防禦する歴史的使命感を高めるべきである。そのためには、日本が新世紀で発展するうえで後れをとる原因となっている「日本国憲法」と「教育基本法」を改定し、政治と教育を、世界の政治大国へと邁進するにふさわしいものにすることである。
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2007年03月11日

従軍慰安婦の正体

小野田寛郎 「私が見た従軍慰安婦の正体」

今騒がれているこの問題ですが、本来問題があるのではなく、ない事を問題に作り上げているということです。以下に小野田寛郎氏が「正論」に寄稿された体験に基づく記述を引用してみましょう。
浅卑新聞が捏造した従軍慰安婦についてはこちらも見て下さい。そして古森義久氏報告トルコも怒っています。

引用開始
 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。・・・・略・・・・
 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。
 大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

漢口の「慰安所」を見学
 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。・・・略・・・
 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。
 彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。

 そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。・・・略・・・

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

どこにもいなかった「性的奴隷」
 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。・・・略・・・
 特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。・・・略・・・
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2007年03月10日

イザベラ・バード2

初めて見る外国人

 イザベラ・バードの「日本奥地紀行」では、彼女が訪れる村の人々にとっては彼女が初めて見る外国人でした。そのあたりの記述はたくさんありますが、その中から一つと、彼女の旅に同道した日本人たちに対する彼女の評価や日本人の子どもこと等を掲載してみます。
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引用開始
 外国人がほとんど訪れることもないこの地方では、町のはずれで初めて人に出会うと、その男は必ず町の中に駆け戻り、「外人が来た!」と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、目の見えない人までも集まってくる。宿屋に着くと、群衆がものすごい勢いで集まってきたので、宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋へ移してくれた。ところが、大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子どもたちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、その結果、みながどっと殺到してきた。・・・・・・

 私は、宿を出ると、千人も人々が集まっているのを見た。・・・・
これら日本の群集は静かで、おとなしく、決して押しあいへしあいをやらない。・・・・・
(次の宿を)朝早く起き、ようやくここを出発することができた。
 二千人をくだらぬ人々が集まっていた。私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとしたときであった。群衆の大逃走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。伊藤(通訳)が言うのには、私がピストルを取り出して彼らをびっくりさせようとしたと考えたからだという。そこで私は、その品物が実際にはどんなものであるかを彼に説明させた。優しくて悪意のないこれらの人たちに、少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。

 ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。
 群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。

 旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事をほうり出して酒を飲んだり雑談をしたりすることもなく、彼らは直ちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって、家へ帰るのである。ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折り賃として何銭かをあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。それは見ていてもたいへん気持がよい。・・・・
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