2007年02月14日

長崎海軍伝習所2

咸臨丸の回航

 海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、著者が長崎に上陸直後あたりの印象を見てみましょう。
写真はオランダから贈呈された観光丸
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引用開始
 1856(安政三)年私は勅命によって殖民大臣付きに補せられ、日本の将軍のためにキンデルダイク造船所にて建造せられた百馬力の蒸気船ヤパン(咸臨丸)をその目的地に回航し、同時に私と同行する人員の一部をもって、さきに1855(安政二)年より57年までペルス・ライケン中佐指揮の下に、日本において航海学およびその他の科学の教育を担当せしめられていた海軍派遣隊と交代すべき命令を受けた。

 今ここに何故オランダが、日本に派遣隊を送ったかの理由につき、一言述べることは、あながち無駄ではあるまい。日本政府は、オランダ国王ヴィルレム三世が折角与え給いし忠告も容れなかった。しかし我が国は常に、日本がヨーロッパ国民をもっと寛大に取り扱う制度を設けるよう慫慂してきた。そうして今度こそは前よりも、もっと成功の見込みがついて、再び提案を出しうる時機の到来を狙っていたのである。・・・・・

 また両国の古い友好関係からしても、強制的手段に訴えるということは、許さるべきではなかろう。かくて我々の望みを達する方法としては、幕府に風説書(長崎の商館長がその義務として、オランダ船入港のつど入手した海外情報を長崎奉行を通じて幕府に提出したもの)の提出を拒否し、また場合によっては、出島を引き揚げるより以外に、途はなかった。しかし幕府の遅疑逡巡の態度は、むしろ憫むべきで、我から相談を断るということは、一般の利害にももとり、また出島の商館を引き払うということも、時すでに遅い。・・・・・

 オランダは及ぶかぎり幕府の期待を裏切らないようにして、その日本における勢力を維持しなければならない。かくてオランダは、あらゆる科学的進歩の誘導者となり、また海軍派遣隊までも付けて蒸気船スームビング(観光丸)を日本に贈呈し、科学的進歩のために助力しなければならなかったのである。

 最初はこれほど尽くしても、おそらく日本を正しい道に導くことはできないだろうと思っていたが、結果は予想を遥かに越えて、江戸の保守派は、未だ勢力を失墜していなかったにもかかわらず、日本人のヨーロッパに対する考え方がガラリと大転換をしたことは、見のがし得なかった。・・・・

 土地の人々は、船の入港の光景を久しく見なかったところに、船から暗闇の中で二発の砲を放ち、到着を知らしたものだから、忽ち市民の間に大騒ぎを起した。・・・・・私がこれを敢えてしたのは、つまりは夜中には何事も起こらないと安心しきった気持でいるお人好しの日本人の夢を、多少とも醒まさせようとの考えからであった。
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posted by 小楠 at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A