2007年02月13日

長崎海軍伝習所1

海軍伝習所創設の経緯

 オランダからの第二次海軍教育班として来朝したファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」副題として「日本滞在記抄」という本から、幕末の日本の考えなどを見てみます。
 この教育班の長崎到着は安政四年(1857年)九月です。
本文に入る前に、当時のこの状況を解説した部分が、大変興味深いので、先ずそこから引用してみます。
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引用開始
 日本の政治は、嘉永六年(1853年)ころから従来にない動揺を示した。安政の初め、徳川幕府は四囲の情勢から、二百年堅持した鎖国政策を持続することが不可能になったと観念して、にわかに開国政策に転ずる腹を決め、さしあたり幕府が最も憂慮する、欧米諸勢力の我が国安全に対する脅威に対抗できる近代的欧式海軍を創設することにした。そしてこの旨を、時の長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウスに内密に告げて、オランダ政府からこの計画の実現のための協力、並びに軍艦の建造または購入の斡旋について、何分の意向を確かめるよう手続きをとってもらいたいと申し入れた。

 それに対しオランダ政府は、近年衰微の一途をたどりつつあった対日貿易の促進と政治的理由から、幕府の要求に応ずる方針を決め、幕府が欧式海軍を創設せんとするならば、先ず幕府はオランダより教師を招聘して、日本青年に近代科学の知識を授け、艦船の操縦術を習得さすことが必要であることを告げ、また軍艦の建造・購入の件については、当時ヨーロッパの政局極めて不穏なる状態にある折柄、幕府の希望に副うことは頗る困難ではあるが、政局安定の暁にはまた改めて考慮すると回答した。

 この結果、幕府は長崎に海軍伝習所を設けて、そこに旗本だけでなく、諸藩の青年にも入所を許し、オランダ人教師から近代科学並びに海軍に関する教育を受けさすこととして、オランダより海軍教育班を招聘したが、そのオランダ教育班は二次にわたって来朝した。その第二次教育班長であったのが、この『滞日日記抄』の著者、オランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケであった。
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posted by 小楠 at 08:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A