2007年02月06日

明治日本体験記U

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
 これより先福井藩主、松平春嶽に呼ばれて来た熊本藩士、横井小楠は春嶽に大きな影響を与え、この本の著者グリフィスも、小楠の「学政一致」の思想の分析をしたりしています。
 私がこのブログでHNとして使っているのは、この横井小楠から借りたものです。
写真は横井小楠
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グリフィス著「明治日本体験記」から、今回は、福井藩主の歓迎のあたりをご紹介します。

引用開始
 藩庁の大広間には藩主と重臣が私を待っていて、中村が護衛をし、岩淵が同席して通訳をすることになっていた。
 一行が乗った馬は大名屋敷前の大名通りと呼ぶ堀に面した広い通りを進んだ。・・・
 藩庁の正門に着いて馬を下りた。・・・小石を敷いた庭の広い石畳の道を通って行った。戸口の前に大きな高い玄関がある。小姓がひざまづいて迎えてくれた。また役人の一人が絹ずれの音をたてて迎えに出て来た。

 靴を脱いで中に入った。やわらかくて念の入った清潔な畳の廊下を通って謁見の間に着くと、型どおりに中に案内された。小姓と侍者がひざまづく。 大名と六人の家臣が立って迎えてくれた。テーブル、椅子、握手は当時まだ新しい物事であったが、そこにはすでにあった。藩主の前に進み出て礼をすると、藩主は寄って来て手を差し出し、あとで知ったことだが、歓迎の言葉を述べた。
 握手の後、藩主から直筆の手紙を渡された。岩淵は最初から畳に両手両膝をつけ、顔をふせて座り、上目遣いに話した。次に長い名前の身分の高い家臣を紹介された。全員がテーブルについた。・・・

 十歳から十二歳のかわいい男の子の小姓が小さな茶碗を金属の茶托にのせて運んできた。みんなが茶碗を持ち上げると、小姓は低くおじぎをして静かに出て行った。
 藩主と家臣から、名前と身分が漢字で書いてある、人目をひく白い紙切れの名刺を渡された。
 松平茂昭、福井藩主。小笠原盛徳、大参事。村田氏寿、大参事。千本久信、副参事。大谷遜、権小参事。大宮定清、家令職。
 にぎやかな話し合いになった。おかげで岩縁の二枚の舌は一時間近くいそがしかった。初対面の堅苦しさが解けてきてくつろいだ気持になり、そのうち愉快になってきた。そして終わりごろにはお互いにうまくやっていけると諒解しあっていた。
 アメリカ人の自由と日本人の気楽さが初めての者同士を友達にしたと言えよう。教育と文化が、二つの民族、宗教、文明に横たわる湾にたやすく橋を架けるのである。この上品で洗練された紳士たちの前で、私は心から打ち解け、一時間が楽しく過ぎた。
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posted by 小楠 at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年02月05日

明治日本体験記T

 今回ご紹介する本は、グリフィス(1843〜1928)というアメリカ人教師の記録です。
 ウイリアム・エリオット・グリフィスは、福井藩の招きで、自然科学の教師として、明治維新直後の、1870年12月29日に27歳の時日本に着き、1874年7月25日までを日本で過ごしました。
写真は渋沢栄一の招きで五十年ぶりに来日したグリフィス夫妻
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グリフィス著「明治日本体験記」(原書は1876年初版)から一部をご紹介します。
ここは、大阪から淀川をさか上って、伏見を通り、滋賀県の大津に到着し敦賀を経て福井にたどり着くあたりの記録です。
写真は明治初年の大津付近
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引用開始
 通訳の岩淵が福井からの五人の武士の到着を告げた。アメリカ人を迎えに百三十マイルを旅してきたところであった。・・・・
 襖が開くと、五人の頑丈な男が入ってきて、こちら向きに前へならって一列に立った。どんな儀式が始まるのかひそかに待ち受けた。一瞬のうちに男たちは床の上に膝を折って座り、両手を伏せて、そのままたっぷり十五秒間、頭を下げていた。それからパッと身を起して、羽織を広げて、はかまに手を入れて正座下。次に代表が岩淵にものものしい書状を渡して読むように言った。それは福井の大名からのもので、福井の政府筋の挨拶と福井までアメリカ人教師をおつれするよう述べてあった。・・・・

 不意の客と予告してある客についての差別は、旅館とその経営者に関していうと、高度な文明国と同様に日本にもある。冬、日本の宿屋に突然入ると、冷蔵庫にいるほど身震ぶるいが生じ、しびれをきらしてわびしく待つ間、グリーンランドのことを思いやっていると、ようやく火と食事が運ばれ、体が暖まり気分が和らぐ。けれども大津では、馬を中庭に乗り入れると、赤々と燃える火が用意してあった。靴と外套を脱ぐと、最上の部屋に案内された。寝床には絹のふとんが重ねて敷いてあり、部屋の真ん中にこたつがあったのが最高にうれしかった。気の毒だが文明国の読者、西洋の未開人には、こたつが何かわかりますか。わからなければ教えましょう。

 部屋の真ん中のあの一フィート四方の畳をあげてみなさい。そこに深さ数インチの石で内張りしたくぼみがある。太った赤いほっぺたの女中が十能いっぱいの燃えている炭をそこに入れる。その上から櫓を真似てその名をとった「やぐら」という高さ一フィートの木の枠を置く。さらにその上に大きなふとんを広げて掛ける。それは即席のむろで、ふとんをまわりにかけて体を焼くのである。なかに小さな熱の天国があって、体のふるえをぽかぽかするぬくもりに変えてくれる。日本が未開の国でひどい所だと信じている不平家を、十分間で、この国は天国だと喜んで言明する熱狂的な人に変えるのが、こたつであると断言してもさしつかえない。・・・・・・
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posted by 小楠 at 07:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年02月03日

大国主神の国譲り

 また古事記の続きを掲載します。
 いよいよ国譲り神話まで来ました。前回との間にも一つ物語がありますが飛ばして行きます。
 また、国譲りは、出雲側からは国造りをされた方へ奉還する、つまりお返しするという立場だと言うことです。
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※建御雷神(たけみかづちのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)
 天照大御神は「今度はどの神を遣わすのがいいでしょうか」と仰せられた。そこでオモイカネの神や諸々の神が、「天の安河の川上の天の石屋におられる、伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)という名の神を遣わせばよいでしょう。もしこの神でなければ、その神の子のタケミカズチノヲノ神を遣わすとよいでしょう。またそのアマノオハバリの神は、天の安河の水を逆に塞き上げて、道を塞いでいますので、他の神は行くことができないでしょうから、特に天迦久神(あめのかくのかみ)を遣わして問われたらいいでしょう」と申し上げた。

 そこでアメノカクの神を遣わして、アメノオハバリの神に問われると、「畏まりました。お仕え申し上げましょう。しかし、このお役目には我が子のタケミカヅチの神を遣わすのがいいでしょう」と申し上げて、ただちに差し出した。そして、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)をタケミカヅチの神に副えてお遣わしになった。
 そんなわけで、この二柱の神は出雲の国の伊耶佐の小浜に降り着いて、十拳剣(とつかつるぎ)を抜き、逆さに波頭に刺し立て、その剣の切先にあぐらをかいて坐り、オホクニヌシの神に問いかけて、「天照大御神と高木神の命でそなたの意向を聞きに遣わされた者である。そなたの領有する葦原中国は、我が御子の治める国としてご委任になった国である。そなたの考えはどうなのか」と仰せになった。

 これに答えて「私には返事ができません。我が子の八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)がお答えするでしょう。しかし、鳥狩や魚取りで、美保の岬へ行って、まだ戻っておりません」と申した。そこで天鳥船神を遣わしてヤエコトシロヌシの神を呼び寄せてお尋ねになったところ、その父の大神に「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と言って、ただちに乗ってきた船を踏み傾けて、天の逆手を打って、青葉の柴垣に変えて、隠れてしまった。
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posted by 小楠 at 07:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 古事記で見る日本

2007年02月02日

米国夫人の大正日本記2

 1919年(大正八年)6月から1922年(大正十一年)夏まで、大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人の著作。
セオダテ・ジョフリー著「横浜ものがたり」の一部をご紹介します。本名はドロシー・ガッドフリー・ウェイマン(1893〜1975)
写真は本牧の家で息子たちとドロシー。
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※契約万能に侵される日本
引用開始
 日本に着いてから初めての夏、私は山手の家を住みよくするため、ウスイ(専属の人力車夫)と一緒に随分店屋を回ったものだった。そうした或る日、弁天通りの陶器屋のウィンドーで美しい花瓶を見つけ、そこの主人に同じデザインでディナー・セットを注文したいと聞いてみた。
「できますよ、オクサン。でもこの絵付師から見積りをもらうことはできません」という返事であった。
(写真は、ウスイとドロシー)
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 古参者達からよく注意されていた私は、注文を出す前にどうしても見積書を出すように主張した。さんざんああだこうだと苛立たせたあと、奇妙な発音通りのアルファベットで書いた見積りをよこした。それによるとディナー・セットは九十円、三ヶ月後のでき上がりということであった。
 その後間もなく、着物を着た小僧がよろよろと自転車に乗ってデザインのスケッチを六枚持ってきた。いずれも日本の歴史的逸話を画いた美しい下絵であった。鎧や衣裳の詳細は勿論のこと、無造作な黒い髪の毛もよく見ると一本一本丁寧に画かれていた。

 三ヶ月の待望期間が過ぎると、私は喜び勇んでディナー・セットを受取りに陶器屋に赴いた。その後週に二、三回は催促に行くようになったが、それがまた三ヶ月続いた。店の主人が苦笑しながら言うことには「しかたがない」だけである。そして巧みな商法で、良いセットができるまでと私はもう一セットのディナー・セットを買わされてしまった。
 漸くセットが我が家に運ばれた時、私の長い忍耐は充分に報いられた。美術愛好家は晩餐の席で、このような芸術品はものを食べるのに使うのはあまりに勿体無い、美術館に属する傑作だと賞賛を惜しまなかった。私は図らずも日本最高の芸術家の創作によるすばらしい食器の持主になってしまったことに気がついた。

 この事は私を俄に欲張りにして、絵師が生きているうちにもっと作品を手に入れようと思い立った。陶器屋の店主はもう作品は望めないと言い張って、どうしても注文は受け付けてくれなかったが絵師の住所は教えてくれた。・・・・・
 サイトー・ホードーの工房は、テラスの農園を上った山の上の岩にこびりつくように建っていた。彼の妻が入れてくれたお茶をいただきながら、私は通訳を通じてどんなに彼の芸術を評価しているかを話し、もっと蒐集を増やしたいと頼んだ。
 ホードーは前かがみの小男で、金縁眼鏡をかけた取り付きにくい人物であった。彼は私の賞賛を冷たく聞き流し、追加注文は頑として引受けなかった。・・・・
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posted by 小楠 at 07:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年02月01日

米国夫人の大正日本記1

古事記を少しお休みして、今回は1919年(大正八年)6月から1922年(大正十一年)夏まで、大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人の著作。
セオダテ・ジョフリー著「横浜ものがたり」の一部をご紹介します。
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本名はドロシー・ガッドフリー・ウェイマン(1893〜1975)で、「エドワード・シルヴェスター・モース伝」の作者でもあります。三児の母で日本の住宅にも住みました。
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※日本人の公園でのマナー
引用開始
 ウスイ(お抱えの人力車夫)と私は一年中花々を追って歩いた。・・・
 桜の花見で私が次に好んだところは、私達の本牧の家に程近い三之谷である。
 この公園はかつて日本のある紳士が所有していたが、海岸に面し、急な白い崖と高い山に囲まれた何万坪かの庭園は一般公衆に開放された。低地には大きな池があって、夏になると見事なピンクと白の蓮の花が茶碗のように空に向って咲き開いた。
 泉水にはコイ金魚が泳ぎ、水面には茶色の鴨が浮かぶ。入口で観覧客は糸につなげられた白いお麩を買う。鴨の住処の小島と池をつなぐ丸木橋の上から麩を投げると、最初の一片が水面につくや否や水中に変動が起こる。大きく尾をひるがえして輝くばかりの金魚[錦鯉]と軍艦色の鯉が無数に姿を現す。見物人がよく食べさせるのだろう彼らは怪物の様に大きく太っている。想像できますか、三フィートもあってアナコンダのように太った金魚を!・・・・・

 樹々の間に輝く朱塗りの鳥居の連なっている境内は聖域を意味する。
曲がりくねった険しい山道を登ると英雄を祀った小さな社があった。その社はほんの三フィートの巾しかない白木の社で、尖った屋根の下の木の棚の間から英雄の名の書かれた碑が見えた。私がここを訪ねた時はいつも必ず二、三人の信者が手を打ち、手を合わせて祈っている姿を見かけない事はなかった。祈祷者には男も女もいたが、ことによく見かけたのは軍服姿の兵隊である。カーキ色の軍服をつけ、脇の下に軍帽を挟み直立して坊主頭を下げる姿であった。

 ある日、私は同国人(アメリカ人)の行為を本当に恥ずかしいと思った事があった。その時祈願を捧げている二人の兵隊の邪魔にならないように社の後ろに座ったのだが、その灰色の木に痛々しくもペンナイフで「ハロー、フリスコ(サンフランシスコ)J.H.S.1915」と堀り刻まれているではないか。なんと言う無意味ないたずら。もし日本人がアメリカで私達の教会にこの様な傷をつけたら何が起こるであろうか。

 日本人が他人の持ち物を尊重することにかけてアメリカ人は学ぶべきところが多い。百万長者の原氏は庭園を開放したあとその一部に高い樹々に囲まれた私邸に住んでいた。ごく小さな表札が門にかかって庭園の観賞は自由だが、それ以上は立ち入らないようにと書かれていた。
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posted by 小楠 at 07:24| Comment(4) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A