2007年02月28日

モースの日本観察4

世界無二の日本の意匠

モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。ここでは東京の加賀屋敷に住みだしたころのもので、博覧会見学で見た日本の芸術と自然を見る目に感心しています。
スケッチは博覧会場の展示品のひとつ
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引用開始
 昨日私は人力車夫を月極で雇ったが、非常に便利である。彼は午前七時半にやって来て、一日中勤める。私が最初に彼の車に乗って行ったのは、上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、私の住んで居る加賀屋敷からここまで一マイルばかりある。・・・・・
 入場料は日曜日は十五セントで平日は七セントである。入口は堂々たる古い門の下にあり、フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに廻り木戸があった。・・・・
 内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、それから日本の植木屋の面食らう程の「嬌態と魅惑」との最も驚嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。・・・・

 何百人という人々を見ていた私は、百年記念博覧会(フィラデルフィアの)を思い浮かべた。そこには青二才が多数いて、生姜パンと南京豆とをムシャムシャやり、大きな声で喋ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々な悪さをしていた。
 ここでは、只一つの除外例もなく、人はみな自然的に且つ愛らしく丁寧であり、万一誤ってぶつかることがあると、低くお辞儀をして礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。

 虫の蝕った材木、即ち明らかに水中にあって時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。腐った株の一片に真珠の蜻蛉や小さな青銅の蟻や、銀線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。
 思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。長さ二フィートばかりの額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀があった。竹は黄色い漆で、小さな鳥は一種の金属で出来ていた。別の古い杉板の一隅には竹の吊り花生けがあり、金属製に相違ない葡萄の蔓が一本出ていた。蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、銅、銀等に似せた浮ぼりであった。意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。
 
 日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術において、かかる簡単な主題を具現化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思われる。
 彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、そしてそれを信用し難い程の力と自然味とで製作する。彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変わりな模様を創造する。彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於いて、驚嘆すべき特徴は、彼等が装飾の主題として松、竹、その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。
 何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、金属、木材、象牙で無際限の変化――物象を真実に描写したものから、最も架空的な、そして伝統的なものに至るまでのすべて――が、喧伝されている。
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2007年02月27日

モースの日本観察3

江ノ島実験所と周囲に見る日本人

 モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。今回は彼の実験所と東京帝国大学への招聘、江ノ島実験所での日本人観察の様子です。
スケッチは江ノ島実験所
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引用開始
 私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。・・・・
 日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。
 日本語がまるでしゃべれぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。

 私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつてミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜私はドクタア・バーマアの家で過ごしたのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、成る程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。
 彼は私がミシガン大学でやったのと同じ講義を黒板で説明してやってくれと希望した。

 (割ったスカートと言った方が適している)衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が一杯いる大きな講堂は、ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聘された。・・・・・

 江ノ島は有名な遊覧地なので、店には土地の材料でつくった土産物や子供の玩具が沢山ある。海胆(ウニ)の二つで作った簡単な独楽がある。小香甲の殻を共鳴器とし、芦笛をつけたラッパ(笛というか)もある。この独楽は長い間廻り、ラッパは長い高い声を立てた。これらは丈夫で手綺麗に作ってある。而も買うとなると私の持っていた最少額の貨幣は日本の一セントだったがおつりを貰うのが面倒なので三つ買った。
 小さな箱の貝細工、上からつるした輪にとまった貝の鳥、その他の上品な貝細工のいろいろを見た私は、我国で見受ける鼻持ならぬ貝細工――ピラミッド、記念碑、心臓形の品、パテをごてごてくっつけた、まるで趣味の無い、水腫にかかったような箱――を思い出さずにはいられなかった。・・・・
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2007年02月26日

モースの日本観察2

日本の植木屋さんは世界一

 モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。ここでは日本は子供にとって安全な国であることを面白い視点で述べ、ままごと遊びを見たり植木屋さんの手腕に驚いたりしています。そして隅田川の河開きの体験など、モースとご一緒に楽しんで下さい。モースは見て興味を持ったものを沢山スケッチしていますので、それらも一部掲載します。
スケッチは隅田川の川開きの一部
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引用開始
 この国民に奇形者や不具者が著しく少ないことに気がつく。その原因の第一は、子供の身体に気をつけること。第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、階段が無いから子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。指をはさむドアも、あばれ馬も、噛み付く犬も、角ではねる牛もいない。牡牛はいるが必ず紐でつながれている。
 鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、高い窓が無いから墜落もしない。従って背骨を挫折したりすることがない。換言すれば重大な性質の出来事の原因になるような状態が、子供の周囲には存在しないのである。投石は見たことがない。・・・・我々からして見れば、日本人が彼等の熱い風呂の中で火傷して死なぬのが不思議である。・・・・

 この広い世界を通じて、どこでも子供達が、泥のパイや菓子をつくるのを好むのは面白いことである。日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて小さな円形のものをつくっていたが、これは、日本にはパイもパンもないので、米でつくる菓子のモチを現しているに違いない。
 この国の人が――最下層の人でさえも――が、必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。私は続けさまに気がついたが、彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、それを横に置くのである。一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時――我々は早く東京に着きたくて急いでいたのでこれをやった――車夫に必ず詫び、そして、通訳の言によると「お許しが出ますれば・・・」というようなことを言う。

 我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角に刈り込み、それに接するのは潅木の生垣で、やはり四角に刈り込んであるが、高さは半分位である。これが町通りに沿うてかなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。
 日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹(いちょう)は、一つの方向に、少なくとも四十フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、三フィートとは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。・・・・・
 我国の園芸家が日本人の持つこの巧妙な芸術に注意を向けたならば、どんなに立派な食卓の中心飾りが出来ることであろう。
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2007年02月24日

モースの日本観察1

正直な日本人に感心
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 ご存知、大森貝塚の発見で有名な、エドワード・シルベスタ・モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した日本の一部をご紹介してみます。
原書は1917年となっており、全訳が昭和四年となっています。それを復刻したものが今回ご紹介する本です。
第一章は、「1877年の日本――横浜と東京」から始まっています。
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引用開始
 不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。日本人がいろいろな新しい考案を素早く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。

 私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車がするように、彼等もまた揃って私の方に駆けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なった麦藁を四本拾い、そして籤を抽くのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。

 汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車のこしきにぶつかった。車夫たちはお互いに邪魔したことを微笑で詫び合っただけで走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起こる罵詈雑言とを比較した。

 何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して癇癪を起したり、虐待したりするのは見たことがない。口小言を言う大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を――もっとも私は常に注意深く観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。・・・・・・

 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。

 この国の人々も所謂文明人としばらく交わっていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵もかんぬきも戸鈕(ちゅう)も――いや、錠をかけるべき戸すらも無いことである。昼間は辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明ける得る程弱いのである。・・・・・・
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2007年02月23日

スタール博士の講演2

日本は外交で譲歩するなかれ

 前回に続いて、昭和五年十月十九日、スタール博士が、一時帰国の前夜、東京中央放送局から全国中継でラジオ放送を行い、多大の感銘を与えた部分がありますので、「世界に生きる日本の心」から引用してみます。
この本については陸奥月旦抄様も記事にしておられます。
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写真は人力車上のスタール博士

引用開始
 日本は今や過去の孤立鎖国の域を脱して、世界の列強の一つとなった。日本は世界の進歩発達に際して真のリーダーとなるべき幾多の機会を有したが、勇気と確信を欠きたるためにしばしば絶好の機会を失ったことは痛嘆の至りである。日本はこの大責任を果たさんためには高遠の理想と、高尚なる目的と、確乎不抜の決断と、特別の智慧を有たねばならぬ。
 今日何れの国家と雖も利他的なものはない。また、これを期待することは愚である。日本は国際親善の精神と正義の観念とをもって、自主的見地から勇往邁進せば、反って世界の尊敬を受け自然のリーダーとして立つことができると信ずる。(中略)

 日本は1895年の日清戦争以来、常に外国の圧迫に対して譲歩に譲歩を重ねて来た。日本は他国の要求及び意志に従わんとして常に国家の重大事に関して譲歩したのである。私は日本の譲歩の動機は国際協調及び国際親善のために寛大なる態度に出でたのであろうと信ずる。
 然しながらかかる政策が繰り返されたならば、外国はこれを目して日本は国際親善の目的に非ずして、むしろ自己の行為または判断の不当を容認せるか、然らざれば卑怯に起因せるものなりと誤解し、その結果日本を軽蔑するようになって来るのである。斯様に推移して行くならば、日本は将来必ずや国権を主張せねばならぬ機が到来するであろう。しかしながらその時は日本の主張が有効となるにはあまりに遅過ぎるのは遺憾である。要するに日本の諺に「後悔先に立たず」という名言がある。

 今これを例証せんとせば、米国の排日移民法通過の際の日本の態度の如きはその適例である。日本政府当局者は何故に日本国民の名誉のために、且つ正義人道のために、正々堂々と日本の正当の主張をなさなかったか。米国との親善を希望して米国に遠慮し、最後まで日本の主張を率直に米国民に披瀝しなかった故に、反って不幸なる結果を招来したのである。

 日本はワシントン会議に於いて日本の国防上多大なる犠牲を払って大譲歩を為した。国際関係に於いては国家と国家との間は対等であらねばならぬ。然るに日本は何故にワシントン会議に於いて、自ら進んで世界列国環視の前で、巨艦に於いて対英米六割の比率を承認して自国の劣等なることを制定する条約に調印したのであるか。
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2007年02月22日

スタール博士の講演1

自国の美風を守れ

 昭和五年十月十九日、スタール博士が、一時帰国の前夜、東京中央放送局から全国中継でラジオ放送を行い、多大の感銘を与えた部分がありますので、「世界に生きる日本の心」から引用してみます。
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引用開始
去るに臨みて親愛なる日本国民諸君へ
☆はじめに
 親愛なる日本国民諸君、今や日本を去るに臨んで私は諸君に別離の辞を呈したいと思う。私の生涯は国際関係に於ける日本の活動の時機に等しいのである。私は1858年、即ちタウンゼント・ハリスが江戸条約(日米修好通商条約)を締結しその条約によって通商上発達を期したる年に生まれたのである。
 八歳の時初めてペルリ提督の「日本来航記」を読んで深く感動した。三十年間シカゴ大学に日本に関する講座を置いて隔年毎に講義をなした。その講座は日本の地理・民族・風俗・習慣・文化・民族的心理・宗教・歴史・政治・外交等の広い範囲にわたっていた。この講座は1894年日清戦争当時に創設せられたものであって、戦争中日々教室にあって日本軍の活動に対して多大の注意を払っていたのである。

 私は日本の近代の重大なる危機に際して常に日本国民と憂苦歓喜とを共にして来たのである。故に私は日本国民の悲痛の際に於いて、或は成功して歓喜の絶頂に於ける日本を知っているのである。
 1904年私は横浜に上陸して、其の日の午後東京に到着するや、日露開戦の号外発行を見たのである。当時私の用務は北海道にあったので、沿道における日本軍隊の活動及び日本国民の真剣なるを見て大いに感動した。
 1918年欧州大戦中日本を訪問し日本が連合国のために多大の犠牲を払い努力せるを目撃した。然しながら日本の参戦の意義と日本の努力とは今日尚世界から感謝されておらぬは遺憾である。(中略)

☆自国の美風を守れ
 ここに私をして二つの問題を講究せしめよ。まず第一に、日本は西洋との接触によって日本固有の多くの美点を犠牲に供したことを痛感せずには居られぬ。日本の文化は古き歴史を有し、賞賛すべき幾多の美点を有している。
 今を去る一千二百年前、奈良朝の文化燦然たる時代に於いて、ヨーロッパの何れの国がその優美と典雅の点に於いて、日本に匹敵する文明を持っていたか。日本は外国から借りてきた文化を直ちに消化して明確に日本化したのである。

 日本の文化はこのようにして数世紀の間維持せられて来たが、近来西洋との接触に伴い、日本文化は根底から動揺を来たし破壊せらるるに至った。外国との接触によってある程度の変化を来たすことは当然である。然しながら日本の近来の外国文化の輸入はいかにも盲目的であることは、日本のために遺憾千万である。
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2007年02月21日

スタールお札博士

排日移民法反対

 日本を愛し、富士山をこよなく愛したアメリカ人、故フレデリック・スタール博士(1858〜1933)を「世界に生きる日本の心」という本からご紹介します。
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引用開始
・・・・ スタール博士は、来日までシカゴ大学のウォーカー博物館の人類学部長を勤めていました。彼は明治三十七年、セントルイス学術研究団の一員として、アイヌの人類学研究が主目的で来日しました。来日した時が日露戦争の時で、日本人の民族性に魅せられ、来日回数は、前後十五回に及びました。
 特に富士山の崇高さ、秀麗さ、雄大さに魅せられ、富士山の大崇敬者になり、また富士山の影響と日本民族のことを深く研究し、日本そのものの魅力にとりつかれ、自身も日本人のようになりたいと思いました。博士は我国滞在中は、常に紋付袴を着用し、その日常生活は、日本人と同じ生活様式に倣ったのでした。

 私共は、彼の日本の理解者としての親日ぶりに好感と敬意を表するものでありますが、只それだけではありません。満州事変及びその後の国際情勢緊迫当時、日本に対する欧米諸国のつのる反日感情に対して、彼は米国に再三往復して、日本の立場の理解に奔走しました。
 従って博士は、その時は敢然、自ら進んで日米親善の民間外交の秀れた大家となりました。知遇のあった人々からは、もし博士が、せめて昭和十九年頃まで健在であったならば、日米は戦わずに済んだのではなかろうか、との声が多く聞かれたものです。
 
 この事実から推しても、彼が如何に日米国交正常保持に献身的であったか窺い知ることができます。また、その間にシカゴ大学に発議して「日本講座」を開設せしめ、日本の正しい研究を通じて日本の紹介に特別の尽力をしました。

富士登山と全国行脚・排日移民法反対

 スタール博士は1858年(安政五年)米国ニューヨーク州オーバン市に生まれました。ラファエット・カレッジを卒業後シカゴ大学の創立(明治二十五年)と共に同大学の教授に招かれました。彼は人類学者として日本とメキシコに興味を持ち、セントルイスで開催された万国博の準備のため、1904年(明治三十七年)に初めて来日しました。
 以来三十余年間、日米間を往復し、東洋文化の研究と日本事情の紹介につとめたのです。大正四年十月、五回目の来日の折、東海道五十三次を踏破したほか、山陽、東北、中仙道を行脚し、四国の霊場八十八ヵ所を巡拝しました。
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2007年02月20日

明治日本の女たち2

日本の職人たち

アリス・ベーコン(1858〜1918)著「明治日本の女たち」の中に出てくる、日本の職人についての部分を引用してみます。
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引用開始
 平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。
日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。
 職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。

 アメリカの貧困層は、最悪の趣味のものに囲まれて生活するか、まったく装飾がほどこされていない家具や台所用品を購入する以外ない。優美なデザインの品物は珍しいので値段も高く、金持ちしか手に入れることはできない。だから、私たちアメリカ人にとって、「安い」ことは「下品」であることを意味する。しかし、日本ではそうではない。優美で美しくても、とても安価なものもある。あらゆるものに優雅で芸術的な感性がみられる。もっとも貧しい平民でさえも、人間の本能である美的感覚に訴えかけるようなちょっとした品を所有している。

 もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。安価な木版画、藍や白の手ぬぐい、毎日使われる急須と茶碗、農家のかまどでみかける大きな鉄製のやかんは、大名屋敷の蔵にしまわれてある豪華なちりめん布、銀の香炉、繊細な磁器、優雅な漆器に劣らぬほど美しくて気品がある。高価な品々は言うまでもないが、こうした物の存在は、日本で広く美の感性が共有されていることを示している。

 たいていの職人は自宅で作業する。人は雇わず、父親が子どもに技を教え、家業を手伝わせることが多い。家は狭いけれども、清潔で品がよい。畳が敷いてあって、上品な茶器があり、壁に小さな掛け物がかかっている。日本は大都会でも、冬のあいだでも、花が安く手に入る。貧乏でも気軽に買うことができるから、部屋の片隅にはいつも美しい花が生けられている。・・・・・・
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2007年02月19日

明治日本の女たち1

日本の礼儀作法について

「明治日本の女たち」という本があります。著者はアリス・ベーコンというアメリカ人です。彼女は1858年生まれで、1872年に、ベーコン家が岩倉使節団に連れられて渡米していた十二歳の山川捨松(後の大山巌伯爵夫人)のホスト・ファミリーとなったことから、当時十四歳のアリスとは姉妹同然に暮し、津田梅子らとも知り合いました。このような縁で、1888年に来日し、華族女学校や東京女子高等師範学校で英語を教え、
1899年に二度目の来日時には、津田塾大学の前身である女子英学塾の教壇にたちました。では、「明治日本の女たち」から一部見てみましょう。
写真右から二人目が使節団当時八歳の津田梅子
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引用開始
 日本では礼儀作法は行き当たりばったりに学ぶものではない。適当に周囲を見渡して真似するだけではだめである。作法は専門家について学ぶのだ。 日常生活のこまごまとしたことすべてに決まりがあり、礼儀作法の師範はそれらを熟知している。こうした師範の中でも、とくに有名な人たちがいて、それぞれ流派を作っている。
 作法は細かい点では異なっているが、主要なところはどの流派も同じである。お辞儀ひとつとっても、体と腕と頭の位置に決まりがある。ふすまの開け閉て、座り方と立ち方、食事やお茶の出し方など、すべてに細かい決まりがあり、若い女性に教え込まれる。
 
 しかし、教えられるほうはうんざりしていることだろう。私が知っている今どきのふたりの若い女性は、礼儀作法のお稽古には飽き飽きしていて、できることならさぼりたいようだった。お作法の先生が帰ってしまった後に、彼女達が先生のしゃちこばったいかめしいしぐさを茶化して、ふざけているのを目にしたこともある。

 ヨーロッパ風のマナーが、古くからある日本の日常の礼儀作法にどれだけ浸透していくのかはまだわからない。しかし、礼儀作法の師範のような人はじきに過去の遺物になってしまうのではないだろうかと、少しばかり残念に思う。
 日本の若い女性が、予期せぬことに直面してもけっして取り乱さないのは、しっかりと礼儀作法を教えこまれているからではないだろうか。アメリカの若い女性ならば、ぶざまにまごついてしまうような場面でも、日本の女の子は落ち着き払っている。・・・・・

 ここまで、私は昔の日本で女性に許されていた教育について述べてきた。こうした教育は効果的で、じつに洗練されたものであった。
 ペリー提督によって眠りを覚まされる前に教育を受けた魅力的な日本の婦人を知る外国人は、誰もが昔の日本の女子教育のすばらしさを認めるだろう。
 こう書いていると、柔和な顔に輝く瞳をした、ある淑女の姿が目に浮かぶ。東京に住んでいたときに、彼女と親しくなれたのは幸運なことだった。夫に先立たれ、子供を抱えて文無しになった彼女は、東京にある官立学校で裁縫の先生をして、わずかな収入を得ていた。貧しくて多忙な日々を送っていたはずなのに、いつも完璧なまでに貴婦人然としていた。礼儀正しく、微笑みを絶やさず、知的で洗練された読書家で、質素で家事をそつなくこなす、日本で過ごした楽しい時間をふり返るたびに、彼女のことが思い出される。こうした女性こそが、昔の日本女性の教養をよく示している。
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2007年02月17日

ゼームス坂物語

東京、品川のゼームス坂

 今回は「世界に生きる日本の心」という本の中から、東京品川にある「ゼームス坂」(JR大井駅から北に下るだらだら坂)の由来について引用してみます。(ジェームスの家はその後三越のマンションになっています)
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引用開始
 この坂はもともと「浅間坂(せんげんざか)」と呼ばれてきましたが、英国人で元船長ジョン・M・ジェームスが住むに及んで、「ゼームス坂」と呼ばれるようになりました。戦争中は「敵性語」が追放されたこともありました。それでも「ゼームス坂」だけは消されることなく今もそう呼ばれています。
 ジェームスは明治四十一年(1908年)七十一歳で横浜の病院で亡くなりましたが、遺体はゼームス坂の自宅に安置され、日蓮宗の豊永日良師が導師となって葬儀が営まれました。

 彼は生前から「死んだら火葬にして、その灰を富士山の白雪の上にまいてくれ」と言っていました。しかし、死の二、三日前に、「遺骨は身延に」と言い残し、臨終の際には法華経を高く誦して瞑目したといいます。
 遺言に従って、墓は身延山の久遠時に建立されました。彼は日本に永住を決意してから仏教を好み、日蓮宗に帰依して戒律を守り、妻も子もありません。日本仏教に帰依した点はアメリカ人のビゲロウやフェノロサを連想させます。

 生涯、著書もなかったし、英人・ジェームスも、時代と共に風化しつつあります。彼はどのように日本に貢献したのでしょうか。
 ジェームスを語るには、まず天保十年(1839年)、福井県藤島に生まれた関義臣という傑物から入らねばなりません。
 関は学問を好み、勤皇運動に挺身し、全国各地に奔走しました。長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となりました。

 関は海外を知らずに開国論を述べることに堪えられず、龍馬のすすめもあって、イギリスへ密航を企てました。そこで知ったのが、海援隊に助力していたカプテン・ジェームスです。
 関はジェームスが船長をしている英国船ローナ号に乗り込み、慶応二年七月十日、長崎を出帆しました。
 上海から香港を経由、シンガポールに向かって航行中、大暴風雨に遭遇して船は沈没。乗組員は端艇に乗り移ってやっと上陸した所、青竜刀をふりかざした海賊にとり囲まれました。ジェームス等はピストル、関等は日本刀で応戦して血路を開き、九死に一生を得ました。思わぬ遭難のため英国行きはとりやめ、ジェームスは日本に留まることになりました。それ以来、二人は厚い友情に結ばれました。
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2007年02月16日

長崎海軍伝習所4

海軍伝習所の勝海舟や榎本武揚

海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、海軍伝習所での勝麟太郎(海舟)や榎本釜次郎(武揚)との練習航海時の模様を見てみます。
写真は榎本武揚
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引用開始
 これから間もなく私は蒸気船にて航海をなすことを定義し、三月三十日海軍伝習所長、大目付木村様および艦長役勝麟太郎らとともに生徒十六名、水夫五十名を引き連れて乗船した。良い天気に恵まれて愉快に五島に向け航海したが、ここでは夜は五島に属する一島の樺島の西岸にある或る港に投錨した。・・・・・
 幕府の肚はその威光を付近の島々に輝かすために蒸気船咸臨丸を使用したかったらしい。・・・・・・

 我々の船は狭い五島の海峡をば、しかも水夫たちのいろいろの指示を受けながら、幸いにも無事通過した。強い潮流がその海峡を東に流れている。それ故、船は進むのに非常な困難を覚えた。機関部員は監督のオランダ将校一名のほかは全部日本人ばかりであったが、この難航を立派に切り抜けた。私は最初、彼らがとても二十四時間も力一杯蒸気を焚き続け得ようとは予想しなかった。・・・・・
 私はこの旅行で大いに得るところがあった。また生徒らも、この航海によって船を動かすことのいかに難しいものであるかを実地に覚えた点において、非常に役立ったと思っている。海軍伝習所長も大いに満足して、幾度も繰り返し私に感謝の辞を述べていた。そうして復活祭の第一日には沢山の鶏卵、四頭の豚、魚、野菜、蜜柑などの贈り物を届けてくれた。
 彼は私に、こうした航海は今後も繰り返しやって貰いたい。また鹿児島、平戸、下関へも行くようにしたいと言っていた。私はむろん喜んでそれを承諾した。・・・・・

 江戸はほとんど毎年、地震、火事または流行病など、何かの災厄に見舞われる。1858年(安政五)は大火の年で、四月には江戸で長崎全市ほどの広い町が灰燼に帰した。このことは艦長役の勝氏が夫人から受取った音信によって私に語って知らせたのであるが、勝氏の全財産はその大火のために失われたとのことである。それだのに勝氏は笑いながら「いや、それしきのこと、何でもござらぬ、18561年の折はもっと凄うござった」と平気で付言していた。実際、この世の事はすべてが比較的である。
 四月十五日、港内を帆走していた十一人乗りのスループが顚覆したのを見たとき、容易ならぬ椿事に見舞われたと思ったが、舵手のデ・ラッペル君の機転によって何の不祥事もなくて済んだ。
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2007年02月15日

長崎海軍伝習所3

東洋諸国と日本の違い

 海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、日本のお寺や婦人についての観察の記述を見てみます。
写真は当時の長崎の町
kajiyajachi.jpg

引用開始
 1855年(安政二)にオランダ国王ヴィルレム三世陛下は、将軍に一隻の蒸気船を献上された。その時、同時にその船を用いて日本人を教育するために、将校機関部員および水兵をもって組織された一派遣隊をも付け給うた。日本人は欣んでその国王の思召しを受けるとともに、感激のあまり同派遣隊所属の人々には、二百年来厳守された規則をなげうって、自由に長崎市の内外を往来しうることすらも許可したのである。

 これら士官および部下たちは日本に雇われているのではなくて、蘭領東インド派遣のオランダ艦隊に属し、給料はオランダ政府から支給されたのである。その指揮官は、日本人に航海学の教育を授ける任務を帯びていた。
 将軍はこれら派遣隊の出島滞在に要する費用に対し、金銭的補償も与えないで派遣隊をただで使うこと欲しなかった。そこで一定の手当を支給したが、なおこの他にもいろいろの恩賞があったから、両者を合すればかなり莫大な額に上ったといえるだろう。・・・・・

 私は日本人が常に我々に対し、及ぶ限りの優しみをもって接し、未だかつて何事も私に相談することなしに、勝手に行ったことなどなかったことを認めねばならぬ。・・・・・
 ヨーロッパでは日本および日本人に対し先入主を持っているが、それもあながち無理もない。例えばキリスト教徒に対する残虐な掃滅、二世紀以上も頑迷に固守された鎖国、オランダ人の出島幽閉――これは何れの著書も憤激に満たされている――のごとき事実は、ヨーロッパ人をして日本人に良い感じを持たしめない理由である。

 しかし、日本人の外国人取扱いを非難する者は先ず1848年に出版されたフォルブスの著『支那滞在の五ヵ年』を一読するがよかろう。その一節に次のようなことが書いてある。
「イギリス人は広東で、自宅に檻禁されているも同然である。散歩しようとて散歩する町が殆どない。たまたま町に出れば侮辱されるに定まっている。いや自宅においてすら、狂暴な民衆を防ぐに安全を感じられないことを経験した。些細な原因でも、きっと激昂の酬いが憐れな外国人の頭上に下され、自分の家が損害賠償を受ける微塵の望みもなくして民衆にブチ毀されていくのを見ていなければならない」
 これによっても我々の隣国人たるイギリス人が、ただ将来の飛躍を望むばかりに、つい最近まで、広東でどれほど酷い目に遭うのを隠忍したかをよく知ることができる。
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2007年02月14日

長崎海軍伝習所2

咸臨丸の回航

 海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、著者が長崎に上陸直後あたりの印象を見てみましょう。
写真はオランダから贈呈された観光丸
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引用開始
 1856(安政三)年私は勅命によって殖民大臣付きに補せられ、日本の将軍のためにキンデルダイク造船所にて建造せられた百馬力の蒸気船ヤパン(咸臨丸)をその目的地に回航し、同時に私と同行する人員の一部をもって、さきに1855(安政二)年より57年までペルス・ライケン中佐指揮の下に、日本において航海学およびその他の科学の教育を担当せしめられていた海軍派遣隊と交代すべき命令を受けた。

 今ここに何故オランダが、日本に派遣隊を送ったかの理由につき、一言述べることは、あながち無駄ではあるまい。日本政府は、オランダ国王ヴィルレム三世が折角与え給いし忠告も容れなかった。しかし我が国は常に、日本がヨーロッパ国民をもっと寛大に取り扱う制度を設けるよう慫慂してきた。そうして今度こそは前よりも、もっと成功の見込みがついて、再び提案を出しうる時機の到来を狙っていたのである。・・・・・

 また両国の古い友好関係からしても、強制的手段に訴えるということは、許さるべきではなかろう。かくて我々の望みを達する方法としては、幕府に風説書(長崎の商館長がその義務として、オランダ船入港のつど入手した海外情報を長崎奉行を通じて幕府に提出したもの)の提出を拒否し、また場合によっては、出島を引き揚げるより以外に、途はなかった。しかし幕府の遅疑逡巡の態度は、むしろ憫むべきで、我から相談を断るということは、一般の利害にももとり、また出島の商館を引き払うということも、時すでに遅い。・・・・・

 オランダは及ぶかぎり幕府の期待を裏切らないようにして、その日本における勢力を維持しなければならない。かくてオランダは、あらゆる科学的進歩の誘導者となり、また海軍派遣隊までも付けて蒸気船スームビング(観光丸)を日本に贈呈し、科学的進歩のために助力しなければならなかったのである。

 最初はこれほど尽くしても、おそらく日本を正しい道に導くことはできないだろうと思っていたが、結果は予想を遥かに越えて、江戸の保守派は、未だ勢力を失墜していなかったにもかかわらず、日本人のヨーロッパに対する考え方がガラリと大転換をしたことは、見のがし得なかった。・・・・

 土地の人々は、船の入港の光景を久しく見なかったところに、船から暗闇の中で二発の砲を放ち、到着を知らしたものだから、忽ち市民の間に大騒ぎを起した。・・・・・私がこれを敢えてしたのは、つまりは夜中には何事も起こらないと安心しきった気持でいるお人好しの日本人の夢を、多少とも醒まさせようとの考えからであった。
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2007年02月13日

長崎海軍伝習所1

海軍伝習所創設の経緯

 オランダからの第二次海軍教育班として来朝したファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」副題として「日本滞在記抄」という本から、幕末の日本の考えなどを見てみます。
 この教育班の長崎到着は安政四年(1857年)九月です。
本文に入る前に、当時のこの状況を解説した部分が、大変興味深いので、先ずそこから引用してみます。
denshu.jpgkattendyke.jpg

引用開始
 日本の政治は、嘉永六年(1853年)ころから従来にない動揺を示した。安政の初め、徳川幕府は四囲の情勢から、二百年堅持した鎖国政策を持続することが不可能になったと観念して、にわかに開国政策に転ずる腹を決め、さしあたり幕府が最も憂慮する、欧米諸勢力の我が国安全に対する脅威に対抗できる近代的欧式海軍を創設することにした。そしてこの旨を、時の長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウスに内密に告げて、オランダ政府からこの計画の実現のための協力、並びに軍艦の建造または購入の斡旋について、何分の意向を確かめるよう手続きをとってもらいたいと申し入れた。

 それに対しオランダ政府は、近年衰微の一途をたどりつつあった対日貿易の促進と政治的理由から、幕府の要求に応ずる方針を決め、幕府が欧式海軍を創設せんとするならば、先ず幕府はオランダより教師を招聘して、日本青年に近代科学の知識を授け、艦船の操縦術を習得さすことが必要であることを告げ、また軍艦の建造・購入の件については、当時ヨーロッパの政局極めて不穏なる状態にある折柄、幕府の希望に副うことは頗る困難ではあるが、政局安定の暁にはまた改めて考慮すると回答した。

 この結果、幕府は長崎に海軍伝習所を設けて、そこに旗本だけでなく、諸藩の青年にも入所を許し、オランダ人教師から近代科学並びに海軍に関する教育を受けさすこととして、オランダより海軍教育班を招聘したが、そのオランダ教育班は二次にわたって来朝した。その第二次教育班長であったのが、この『滞日日記抄』の著者、オランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケであった。
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2007年02月12日

神武天皇の誕生

 前回からの続きになります。このホヲリノ命の孫が神武天皇ということで、今回の古事記のご紹介は、まずここまでとしておきます。
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※鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)
 こう言う事情で、ワタツミノ神の娘トヨタマビメノ命が自身で出向いて来て、「私はすでに妊娠し、出産の時期になっています。考えて見ると天つ神の御子は海原で生むべきではありません。それで参上いたしました」と申し上げた。
 そこで早速海辺の渚に、鵜の羽で屋根を葺いた産屋を造った。しかしまだ屋根も葺き終わらないうちに産気づいて我慢できなくなったので産殿に入られた。今まさに生まれんとするときに、その夫に申し上げて、「すべて他国の者は出産の時には、もとの国での姿になって産むものです。それで、私も本来の姿で産もうとしています。お願いですから決して私を見ないで下さい」と申し上げた。

 ホヲリノ命はその言葉を不思議に思われて、秘かにお産の始まるところを覗いてご覧になると、八尋もある鰐になって這い回り身をくねらせていた。それを見て驚き恐れて逃げ去られた。それを知ったトヨタマビメ命は恥ずかしいと思われて、御子を産んだまま残して、「私はいつまでも海の道を通ってここに往き来したいと思っていました。けれども私の姿を見られて大変恥ずかしい」と申して、海との境を塞いで帰って行かれた。

 このような訳で、そのお生みになった御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と言う。しかしその後は、ホヲリノ命が覗き見されたことを恨めしくお思いになりながらも、慕う心に堪えられなくて、その御子を養育申し上げるという理由で、妹の玉依毘売(たまよりびめ)を遣わし歌を献上した。

その歌に、
「赤い玉は、緒までも光るように綺麗ですが、それにもまして、白玉のような貴方のお姿が気高く思われることです。
と歌った。そこで夫の神が答えて、
「鴨の寄り着く島で、私が共寝したいとしい妻のことは忘れないだろう、私の生きている限り」
とお歌いになった。
 そしてヒコホホデミノ命は、高千穂宮に五百八十年間おいでになった。御陵はその高千穂の山の西にある。

 このアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命が、その叔母のタマヨリビメノ命を妻として生んだ御子の名は、五瀬命(いつせのみこと)、次に稲氷命(いなひのみこと)、次に御毛沼命(みけぬのみこと)、次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、亦の名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、亦の名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)と言う。
 そしてミケヌノ命は波の上を踏んで常世国にお渡りになり、イナヒノ命は、亡き母の本国のある海原にお入りになった。
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2007年02月11日

海幸彦と山幸彦

さて、いよいよ神武天皇に近づいてきました。丁度今日は紀元節・建国記念の日。そして皆様もよくお聞きになったと思いますが、ここでは海幸彦と、神武天皇の祖父にあたる山幸彦のお話を掲載します。
神話に関しては、本からの贈り物様と杳路庵摘録日乗様の所で楽しいご本が紹介されています。
hoori.jpg

 さて、ホデリノ命は海幸彦として、大小さまざまな魚を取り、ホヲリノ命は山幸彦として、大小さまざまの獣をお取りになった。ある時ホヲリノ命が兄のホデリノ命に「それぞれ猟具と漁具を交換して使ってみよう」と言って幾度もお願いになったが許されなかった。しかしやっとのことで取り替えてもらうことができた。
 そこでホヲリノ命は漁具をもって魚釣りをされたが、一匹の魚も釣れず、その上釣針を海で失ってしまわれた
 そこで兄のホデリノ命はその針を求めて「山の獲物も海の獲物も、自分の道具でなくてはだめだ、今はそれぞれの道具を返そう」と言うと、弟のホヲリノ命は答えて「あなたの釣針は、魚を釣ろうとしても一匹も釣れず、とうとう海に失くしてしまいました」と言われた。けれども兄は無理やり返せと責めたてた。そこで弟は着けていた十拳剣を砕いて、五百本の釣針を作って償おうとされたが、兄は受取らず、また千本の釣針を作って償おうとされたが受取らないで、「もとの釣針を返せ」と言った。

 弟が泣き悲しんで海辺におられた時に、塩椎神(しおつちのかみ)が来て、「虚空津日高(そらつひこ[ホヲリノ命を指す])が泣き悲しんでいるのは、どういうわけですか」と尋ねると、「私と兄と釣針を取り替えて、その釣針を失くしてしまったのです。それで釣針を返せと言われるので、沢山の釣針で償おうとしましたが受取ってくれず、『もとの釣針を返せ』と言うので泣き悲しんでいるのです」と仰せられた。

 そこでシオツチノ神が、「私があなたのために良いことを考えましょう」と言って、すぐに竹を隙間なく編んだ籠の小船を造って、その船にホヲリノ命を乗せて、「私がこの船を押し流しましたら、しばらくそのままお進みなさいませ。よい潮路がありましょう。そこでその潮路に乗ってお進みになったならば、魚の鱗のように家を並べて作った宮殿があって、それが綿津見神(わたつみのかみ)の御殿です。その神の宮の御門においでになられましたら、傍らの泉のほとりに神聖な桂の木があるでしょう。そしてその木の上にいらっしゃれば、その海神(わたつみのかみ)の娘があなたのお姿を見て、取り計らってくれるでしょう」と教えた。

 そこで教えの通りに少しお進みになると、全てその言葉の通りであったから、ただちにその桂の木に登っておいでになった。するとワタツミノ神の娘の豊玉比売(とよたまびめ)の侍女が、器を持って水を汲もうとしたとき、泉の水に光がさしていた。ふり仰いで見ると美しい立派な男子がいたので大変不思議に思った。このときホヲリノ命はその侍女の姿を見て、水がほしいと所望なさった。侍女はすぐに水を汲んで器に入れて差し上げた。
 ところが、水を飲まずに、お頚にかけた玉を解いて口に含んで、その器に吐き入れなさった。するとその玉は器にくっついて、侍女は玉を外すことができなかった。それで玉の着いたままの器をトヨタマビメノ命に差し上げた。
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2007年02月10日

天孫の降臨

 今日は古事記の前回からの続きを掲載しておきます。神話でも重要な位置にある、天孫降臨の部分です。
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※道案内の神、猿田毘古神
 さて、日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)が天降りなさろうとする時に、道中の多くの道に分かれる辻に、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がいた。
 そこで、天照大御神と高木神の仰せで、天宇受売神(あめのうずめのかみ)に「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に気おくれしない神である。そこで、あなた一人で行って、『吾が御子が天降りする道に、どうしてこのように居るのか』と聞いて欲しい」と仰せになった。そこでアメノウズメノ神が問われたことに答えて「私は地上の神で名前は猿田毘古神(さるたひこのかみ)といいます。ここに出ているわけは、天つ神の御子が天降りされると聞きましたゆえ、道案内の役目としてお仕えしようと思って、お迎えに参りました」と申し上げた。

※天孫降臨
 こうして、アメノコヤネの命とフトダマの命、アメノウズメの命、イシコリドメの命、タマノオヤの命、合わせて五つに分かれた部族の長を加えて天降らせになった。その時に、石屋戸からお招きした八尺(やさか)の勾玉・鏡[八咫の鏡(やたのかがみ)]、また草なぎの剣[天叢雲剣]、また常世のオモヒカネの神・タヂカラヲの神・アメノイワトワケの神をもお加えになり、天照大御神は「この鏡はひたすら私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祭りしなさい。次に
オモヒカネの神は、私の祭りに関することをとり扱って政をしなさい」と仰せられた。

 この二柱の神(天照大御神と思金神)は、五十鈴の宮に丁重に祭ってある
 次に登由気神(とゆけのかみ)は渡会の外宮に鎮座されている神である。
 次にアメノイワトワケの神、亦の名は櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と言い、亦の名は豊石窓神(とよいわまどのかみ)と言う。この神は宮門守護の神である。次にタヂカラヲの神は伊勢の佐那県(さなのあがた)に鎮座しておられる。そして、かのアメノコヤネの命は、中臣連(なかおみのむらぢ)らの祖神であり、フトダマの命は忌部首(いむべのおびと)らの祖神であり、アメノウズメの命は、猿女君(さるめのきみ)らの祖神であり、イシコリドメの命は作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの祖神であり、タマノオヤの命は玉祖連(たまのおやのむらじ)らの祖神である。

 さてそこで、天つ神はヒコホノニニギノ命に仰せを賜り、ニニギノ命は高天原の神座をつき離し、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、神威で道をかき分けかき分けて、天の浮橋から浮島にお立ちになり、筑紫の日向の高千穂の霊峰に天降りになった。その時、天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あめのつくめのみこと)の二人が、立派な靫を負い、頭椎の太刀を腰に着け天のはじ弓を手に執り、天の真鹿児矢を手に挟んで、先に立ってお仕え申し上げた。彼らは大伴連(おおとものむらじ)らの祖先と久米直(くめあたい)らの祖先である。
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2007年02月09日

明治日本体験記V

グリフィスが見た日本女性の地位

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
今回はグリフィスが感じ見た日本女性の地位について書かれている部分を見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から
griffis.jpg

引用開始
 しかし、アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国と比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。
 子女の教育はよくなっており、この国の記録にはおそらくアジアのどの国よりはるかに多くのすぐれた女性が現れるだろう。まさにそういう時機に、公立・私立の女学校が開設されて、女学生が通学している。・・・・・・

 この問題の根は銭湯をのぞいたぐらいでは見つからない。歴史、文学、芸術、理想を調べてみなければならない。それには西洋の理想や偏見を基準にしてはいけない。西洋人が潔白であり宗教的だと見なしているものの中に非難すべきことが多くあるのを、日本人は正しい目で見ている。だからこれらの判断は公平でなければいけない。

 百二十三人の日本の君主のうち九人までが女性であった。神権の管理人は処女の神官である。日本の女性はその機知と天才によって母国語を文学語にした。文学、芸術、詩歌、歌謡において、名声と栄誉の長い巻物にのっていて、その額に日本人が少なくとも高名の色あせない花輪を置いた最も輝かしい人たちのなかに、女性の名前がまじっている。その女性たちの記憶は、暗唱、引用、読書、屏風、巻物、記念碑、壁、扇、茶碗の上の文章や絵画など、太平洋の東と西の外国人讃美者さえ喜ばす絶妙な芸術作品として、いまなおみずみずしく残っている。

 紳士淑女の道、道徳律、宗教的戒律が手本として試されるような人生の難儀にあたって、日本人の示した栄光、勇気、艱難に耐えること、立派な死に際、親孝行、妻の愛情などの記録が残っている。中でも歴史と物語文学、実際の日常の出来事のなかに、男性に課せられたどんな苦しみや悲しみも共にする女性の力と意志が示された例がいくらでもある。・・・・・

 女性についてこれまでのところ、私の意見は、世界のカスが日本のカスと出会う港町の生活をいそいで垣間見た結果ではなく、内地の都市や日本の首都に数年生活してみてわかったものであることを忘れないでほしい。さらに私は日本の普通の女性を他の国の普通の女性と並べて見ている。また神国の男性と社会との関係で女性の地位を述べている。そしてアジアの他の諸国に比べて日本は、女性に対する尊敬と名誉にかけてはアジアの指導者であると信じたい。
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2007年02月08日

明治日本体験記W

グリフィスの見た封建制決別の日

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
ここではグリフィスが見た廃藩置県(1871年8月29日)に伴う封建制との決別その時を、福井藩での人々の動揺の様子を通じて、見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から。
絵はカゴに乗るグリフィス
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引用開始
 七月十八日(1871年)
 まさに青天の霹靂!政治の大変動が地震のように日本を中心から揺り動かした。その影響はこの福井でもよく観察できた。今日、町の武士の家には激しい興奮が渦巻いている。武士の中には三岡(福井藩士、由利公正)を殺すとおどしている者がいるという。というのは三岡は1868年の功績で収入を得、また福井で長い間、改革と国家の進歩の中心人物であったからである。

 今朝十時に、東京からの使者が藩庁に着く。にわかに学校で騒動が起きた。日本人教師と役人が全員、学監室に呼び出された。数分後に会うと、その人たちの大方は顔が青ざめ、興奮していた。・・・・・
 たった今届いた天皇の声明によると、武士の世襲の所得を減らし、名目だけで任務のない役所を廃止し、それに付けた給金は天皇の国庫に渡すよう命じている。
 役人の数は最小限まで減らす、藩の財産は天皇の政府のものになる。福井藩は中央政府の一県に変わる、そして役人はすべて東京から直接に任命されることになる。

 この変化は私にいい影響を与える。いままで学校の管理に十四人の役人があたっていた。「船頭多くして舟山に登る」。ところが今は、わずか四人。藩庁から役人が訪ねてきて、私の四人の護衛者と八人の門番が免職になると告げた。これからは二人の門番しかいない。福井の地方役人の数は五百から七十に減らされる。役人という厄介者を振り捨てるところである。昔から日本の最大の災いは働かない役人とごくつぶしが多過ぎることであった・・・・新生日本万歳。

七月十九日
 今日の学校は、役人は不在。そのため私の教える科には、いつもの役人の騒ぎ立てや邪魔がなかった。特筆すべきことだ。学監室は空っぽだった。・・・・・
 県庁の定員は昨日までの太った身体が骸骨になったように、最小限度になった。学生が言うには、町の老人の中には心配で気が狂いそうな人がいるし、少数の乱暴者がまだ三岡らの天皇支持者を、こんな状態にしたのはお前らだ、殺してやると言っている。
 けれどもちゃんとした武士や有力者は異口同音に、天皇の命令を褒めている。それは福井のためでなく、国のために必要なことで、国状の変化と時代の要求だと言っている。日本の将来について意気揚々と語る者もいた。「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」と言った。
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2007年02月07日

明治日本体験記V

女性蔑視どころか、かかあ天下の日本

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
 ここではグリフィスの住んだ家、生活の一部についての記述を見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から。
絵は後にグリフィスのために立てられた家のスケッチ
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引用開始
 私に当てられた古い屋敷は建てられてから百九十七年たっていて、これまで代々同じ一族が住んでいた。この家は柴田勝家の古城があった所に建っていた。・・・・・・それは堅い材木でできた大きな古い家で、広い部屋と長い明るい廊下があった。幅六十フィート、奥行き百フィートの一階建てだが・・・・・部屋数は全部で十二。床はやわらかくてきれいな畳が敷いてあり、・・・・。
 このようにしてこの住居で数世紀にわたって、先祖代々の地所の上で、一族が平和にくらし、繁栄してきた。

 やがて外国人がやって来ていろいろな災難が起きた・・内乱、革命、将軍の打倒、天皇の再興、封建制度の強制的廃止と。大変化が福井の様子を変えた。知行高が減って、一族は粗末な場所に移り、家来や小作人は散り散りになり、そして今外国人がここに来た。・・・・
 古い文明を破壊するための新しい文明を持ってくるのを手伝いに、知識の建築者として私は福井に来た。しかし、因習打破主義者になることは難しかった。しばしば自分に問うた。なぜこの人たちをそのままにしておいてはいけないのか。みんな充分に幸福そうだ。「知識を増すものは憂いを増す」というではないか。古い祠でさえ、人間の信仰と崇拝を神聖にするため奉納されてきたのだ。この見捨てられた神殿の石を取り除くのは、私ではなく、誰か他人の手にまかせねばならない。かつて位牌があり、燈明と香が燃えていた家族の小礼拝堂(仏間)を、食堂にするとは何といやしい考えか。・・・・・
 信仰もまたそうである。もしも私達の信仰が神聖なら、他人の信仰も神聖なのだ。・・・・・・

 家の同居者について一言ふれないわけにはいかない。日本到着の第一日目に召使が選ばれて、未来の主人に会わせに連れられてきた。佐平をはじめて見た時、佐々木がもっと顔立ちのいい男を召使として選んでくれなかったのが残念で仕方なかった。・・・・・
 また最初、新しい召使が独り者だと思って失望した。家族のある既婚の男に来てもらうつもりだった。その方が同じ屋根の下で実際の日本人の生活を見ることができると思ったからである。・・・・・
 このように失望は大きかったが、反面、うれしいこともあった。佐平は百姓の出ではなかった。東京へ旅をしたことがあった。小者として戦いに出たこともあった。頭がよくて人に仕えるのに適していた。職業はかつて大工であったから、家のことを手際よくした。・・・・
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posted by 小楠 at 07:54| Comment(7) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A