2007年01月05日

南京維新政府

顧澄の「維新政府一周年に思う」から

 南京陥落翌年の1938年10月、南京に維新政府ができて約一周年をまとめた『維新政府初周年紀念冊』という本に掲載された顧澄という人の「維新政府一周年に思う」という興味深い小文が掲載されていましたので、鈴木明著「新『南京大虐殺のまぼろし』」から引用してみます。
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引用開始
 高冠吾が南京市長に就任した十月からの統計表が残っている。
 それによると「南京事件」の翌年に当る1938年10月末の南京市の人口は、329,488人、その他、日本人、3,950人(軍人を除く)、開いている商店、2,441戸、南京駅の乗降客数は、25,414名である。
 しかし、職を持たない「難民」の数はまだ5,751名にも上り、維新政府委員会の規定によって、大人一人、一日米四合、子供二合の配給をしているが、維新政府は経済的に非常に苦しいことを訴えている。何しろ税収が少なく、日本からの援助額も、限られたものだったからである。・・・

 教育部部長代理顧澄の文章は、その中でひときわ異彩を放っていて、心から僕を驚かせた。全文では長いので、その中心になっている部分を、ここでご紹介する。

 「蒋介石が政権を握ってから中国は一党独裁になり、親戚縁者を中心に集め、国民には酷税を課し、個人の道徳は低下した。その結果“西安事件”が起り、かつて、“反共”を掲げて天下をとった者が、一夜にして“容共”となったのである。そして戦争が起り、8・13(上海戦)の災いを呼ぶことになってしまった。
 考えてみれば、彼(蒋介石を指す、以下同じ)は中国と日本を比較して、その強弱の違いを知らないわけではなかった。ただ、いたずらに首領としての地位に未練を残し、西欧列強の助けを求めて、万一の勝ちに望みを託したのである。その結果、若き者は前線で命を落し、老幼弱者は荒野にさまよい、地に倒れた。
 これら若者、老幼弱者に何の罪があるというのだろうか。戦争というものは、はじめることは容易だが、収拾することは極めて困難である。
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posted by 小楠 at 09:09| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚から真実を