2007年01月31日

古事記、山田のかかし

 前回との間にはいくつかの物語がありますが省略しますので、興味のある方は古事記でお調べ下さい。ここでは、山田の案山子(かかし)が出てきますので、ご紹介しておきます。
 山田のかかしも童謡として歌われていましたから、お馴染みでしょう。
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※少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と御諸山(みもろやま)の神
 さて、大国主神が出雲の御大(美保)の御前(みさき)におられる時、波頭から羅摩船(かがみのふね)に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いだ着物を着て近づいてくる神があった。そこで、その名前をお尋ねになったけれども答えがなかった。また、お供の諸々の神にお尋ねになっても、みな「知りません」と申した。
 そこで、たにぐく[蝦蟇、ひきがえる]が、「これは、くえびこ[かかしの神名]が知っているはずです」と申したので、すぐにくえびこを呼んでお尋ねになると「これは神産巣日神(かむむすびのかみ)の御子でスクナビコナの神です」とお答え申しあげた。

 そこで大国主神がカムムスビの御祖命(みおやのみこと)にこのことを申し上げると、「これは本当に私の子です。子供の中でも、私の手の指の間から漏れこぼれた子です。そしてお前は、葦原色許男命(あしはらしこをのみこと[大国主の別名])と兄弟となって、その国を造り固めなさい」と仰せられた。そしてそれ以後オオナムヂ(これも大国主の別名)とスクナビコナとの二柱の神が共にこの国を造り固められた。その後は、スクナビコナの神は常世国にお渡りになった。
さて、そのスクナビコナの神であることを顕し申し上げた、いわゆる「くえびこ」は、今でも山田のそほど(かかしの古名)という案山子である。この神は歩くことは出来ないが、ことごとく天下のことを知っている神である。・・・・

※葦原中国の平定
 天照大御神の仰せで、「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきながいはあき[長久の意])の水穂の国は、私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と委任されて、高天原からお降しになった。
 オシホミミの命が降りる時、天の浮橋に立って言われるには、「豊葦原の水穂の国は大そう騒がしいようだ」と。そしてまた戻って、天照大御神に指示を仰がれた。
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2007年01月30日

八俣の大蛇と因幡の白兎

 これも有名なお話。子供の頃祖父がよく話してくれました。須佐之男命と言えば一番に思い出すのがこの勇ましいお話です。そしてもう一つ有名なのが、大国主命(おおくにぬしのみこと)の因幡の白兎(しろうさぎ)のお話ですね。これは可愛らしいお話です。因幡の白兎には歌もあります。
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※八俣の大蛇(やまたのおろち)
 こうして高天原を追われた須佐之男命は、出雲の国の肥の河[島根県の斐伊川]上の鳥髪という所にお降りになった。その時、箸がその河に流れてきたので、須佐之男命はその川上に人が住んでいると思われて尋ね探して上って行かれると、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人がいて、少女を間において泣いていた。そこで「お前たちは誰だ」とお聞きになると、その老夫が「私は国つ神の大山津見神(おおやまつみのかみ)の子です。私の名は足名椎(あしなづち)といい、妻の名は手名椎(てなづち)といい、娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)と言います」と答えた。

 また「お前は何故泣いているのか」とお問いになると、「私の娘はもともと八人おりましたが、この高志[地名]の八俣のをろちが毎年来て娘を食ってしまいました。今それが来る時期となり、それで泣いています」と答えた。それで、「そのをろちはどんな形をしているのか」とお聞きになると、「目は赤かがち[真赤に熟れたほほずき]のようで、一つの体に八つの頭と八つの尾があります。そしてその体には、ひかげのかずらと檜・杉が生え、身の長さは八つの谷、八つの峰に渡っており、その腹を見るとどこもかしこも常に血に爛れております」と申し上げた。

 そこで須佐之男命は老夫に「このお前の娘を私にくれるか」と仰せられると、「恐し(かしこし[恐れながら])、まだお名前を存じませんので」と答えた。それに答えて「私は天照大御神の弟である。そして今、高天原より降ってきたところだ」と仰せられた。そこでアシナヅチとテナヅチの神は「それは恐れ多いことでごさいます。娘を差し上げます」と申し上げた。

 速須佐之男命は早速その娘の姿を爪形の櫛に変えて御みづらに刺して、そのアシナヅチ・テナヅチの神に「お前たち、何度も醸した濃い酒を造り、また垣を作り廻らして、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を作り、その桟敷ごとに酒の桶を置いて、その桶に先ほどの酒を盛って待つように」と仰せられた。
 そして、言われた通りに準備して待っていると、本当に彼らが言った通り八俣のをろちがやって来た。そしてすぐに酒の桶ごとに自分の頭を入れて、その酒を飲んだ。それで、酔っ払ってその場で寝てしまった。この時、速須佐之男命は、身につけておられた十拳剣を抜き、その蛇をずたずたに斬ってしまわれたので、肥の河は血となって流れた。

そしてその中ほどの尾を斬られた時、御刀の刃がかけた。そこで不審に思われて、刀の先でその尾を割いてご覧になると、すばらしい太刀があった。その太刀を取って、不思議な物だとお思いになり、天照大御神に申し上げて献上された。これが草薙(くさなぎ)の太刀である。(★皇室の「国史」白鳥庫吉著ではこの剣は「天叢雲剣」『あめのむらくものつるぎ』となっています。)

 こうして、速須佐之男命は宮を造るべき所を出雲の国に求められた。そして須賀の地に到り、「私はここに来てすがすがしい心だ」と仰せられて、そこに宮を造ってお住みになった。それでその地を今も須賀と呼んでいる。この大神が初めて須賀の宮をお造りになった時、そこから雲が立ち上ったので、御歌をお詠みになった。その歌は、
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
と言う。
 そこで、アシナヅチの神を呼んで、「お前をわが宮の首長に任じよう」と告げられた、また名を与えて稲田宮主須賀之八耳神と名づけられた。
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2007年01月29日

古事記、天の石屋戸

 ここにはまた神の名が多く出てきますが、続きを考えて、必要な神だけのご紹介に止めます。つづいて有名な天の岩戸のお話となります。
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※神の誓約(うけひ『正邪吉凶などの判断』)生み
 そこで天照大御神が仰せられるには、「では、お前の心の清く明らかなことはどうすれば判るのか」と問われた。それで速須佐之男命が答えて「それぞれ誓約して子を産みましょう」と申し上げた。こうして各々天の安河を中にはさんで誓約する時に、天照大御神が先ず、建速(たけはや)須佐之男命が帯びている十拳剣(とつかつるぎ)を受け取り、これを三つに折り玉の触れ合う音とともに天の真名井(まない『神聖な泉』)に振り濯(すす)いで、何度も噛み砕いて噴出す息の霧から成った神の御名は、・・・・
の三柱。

 速須佐之男命は、天照大御神の左の御みづらに巻かれた長い、多くの勾玉を通した珠を受け取って、玉の音とともに天の真名井に振り濯いで、何度も噛み砕いて噴出す息の霧から成った神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。また右の御みづらに巻かれた珠を受け取って、何度も噛み砕いて噴出す息の霧から成った神の御名は、天之菩卑能命(あまのほひののみこと)である。
・・・・あわせて五柱。

 そこで天照大御神が速須佐之男命に、「この後に生まれた五柱の男子は、自分の持ち物から成ったのであるから、当然我が子である。先に生まれた三柱の女子は、お前の持ち物から成ったのであるから、彼女らはお前の子である」と区別を告げられた。・・・・・
 先に生まれた三柱の神は、宗像君(むなかたのきみ)等があがめ祭っている三座の大神である。

※天の石屋戸(いわやど)
 この時、速須佐之男命が天照大御神に申すには、「私の心が清く明らかな故に、生んだ子はやさしい女の子でした。この証拠にもとづけば私の勝です」と言い、勝に乗じて天照大御神の営田(つくだ『耕作する田』)の畔を壊し、その溝を埋め、また天照大御神が新嘗祭の新穀を召し上がる神殿に、糞を撒き散らした。
 須佐之男命がそのようなことをしても、天照大御神はとがめたてせず、「糞のように見えるのは、我が弟の命が酔っ払って吐き散らしたものであろう。また田の畔を壊し、溝を埋めたのは、我が弟が、土地がもったいないと思ってしたことであろう」と言われたけれども、悪行は止まずますますひどくなった。
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2007年01月27日

天照大御神と須佐之男命

 ここは神の名がつづいて出てきますが、その中の何神かをご紹介するに止めます。
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※神の神生み
 伊邪那岐、伊邪那美の二神は国を生み終わって、更に神をお生みになった。その神の名は、・・・・・・・次に海の神、名は大綿津見神(おほわたつみのかみ)を生み、・・・・次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのかみ)を生み、次に木の神、名は久久能智神(くくのちのかみ)を生み、次に山の神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を生んだ。亦の名は野椎神(のずちのかみ)と言う。・・・・・
次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生んだ。亦の名は火之拡堙ソタ(ひのかがびこのかみ)と言い、亦の名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と言う。この子を生んだために、陰部が焼けて病に臥せた。・・・・

 こうして邪那美神は,火の神を生んだために遂にお亡くなりになった。
伊邪那岐・伊邪那美の二神が共に生んだ島は十四島、神は三十五神。 
そして伊邪那岐命は、伊邪那美が亡くなる原因となった子、迦具土神(かぐつちのかみ)の頚を十拳剣(とつかつるぎ)で斬られた。・・・・・


※黄泉の国、(概略で飛ばします)
 そこで伊邪那岐命は、女神の伊邪那美命に会いたいと後を追って黄泉の国へ行かれた。そして現世に帰ってくれるよう頼みます。
 すでに黄泉の国の食べ物を食べてしまった伊邪那美命は、それでも黄泉の国の神と相談してみますと答え、その間自分の姿を見てはいけませんと言います。
 その間が大変長いので、男神が覗いてみると、女神の身体には蛆がたかり、ゴロゴロと鳴って、頭には大雷(おおいかずち)がおり、・・・・・・
 これを見て伊邪那岐命が驚いて恐れ逃げて帰られるとき、伊邪那美命は「私によくも恥をかかせた」と言って、ただちに黄泉の国の醜女(しこめ)を遣わせて追いかけさせた。・・・・・・

 最後に、女神の伊邪那美命自身が追いかけて来た。そこで男神は、巨大な千引きの岩をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き据えて、その岩を間にはさんで二神が向き合って、夫婦離別のことばを交わすとき、
 伊邪那美命が申すには「いとしいわが夫の君が、こんなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を一日に千人絞め殺しましょう」と申した。すると伊邪那岐命が言われるには「いとおしいわが妻の命よ、あなたがそうするなら、私は一日に千五百の産屋を建てるだろう」と言われた。こういうわけで、一日に必ず千人の人が死ぬ一方、一日に必ず千五百人の人が生まれるのである。・・・・・
 そして、かのいわゆる黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂という坂である。

※禊祓(みそぎはらへ)と三貴子
 伊邪那岐命は言われるには「吾はなんといういやな穢らわしい国に行ってきたことだろう。そうだ、私は体を清めよう」と言われて、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)に到って、禊(みそ)ぎ祓えをされた。・・・・・・

 ここに左の御目を洗われた時に成り出た神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗われた時に成り出た神の名は、月読命(つきよみのみこと)。次に御鼻を洗われた時に成り出た神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)。・・・・・
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2007年01月26日

古事記、天地の初め

 古事記成立の直接の動機は、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に勅語して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞をくり返し誦(よ)み習わせられたことですが、天武天皇が崩御されたためその計画は実行されなかった。しかし、天武天皇の御遺志は皇后であった持統天皇に受け継がれ、さらに天武天皇の崩御後二十五年を経て、天武天皇の姪にあたる元明天皇に受け継がれて、太安万侶の手で記され、和銅五年(712年)に献上されました。
 今回は、古事記の中からかいつまんでその物語をご紹介してみます。
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参考書は、講談社学術文庫の古事記です。

※天地(あめつち)の初め
 天地(あめつち)が初めて発(ひら)けた時、高天原に成った神の名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日(かむむすひのかみ)である。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)として成り、その身(姿形)を隠されて[姿を現さない]いた。

 次に国がまだ稚(わか)く、脂の浮いたような状態で、海月(くらげ)のように漂っている時、葦牙(あしかび)のように萌え騰(あが)る物から成った神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)である。この二柱の神もみな独神で身を隠されていた。
 上(かみ)の件(くだり)の五柱の神は別[・・特別]な天(あま)つ神である。
 次に成った神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、次に豊雲野神(とよくもののかみ)である。この二柱の神も独神として成り身を隠されていた。

 次に成られた神の名は、宇比地邇神(うひぢにのかみ)、次に妹須比智邇神(女神のすひぢにのかみ)である。
 次に角杙神(つのぐひのかみ)、次に妹活杙神(女神のいくぐひのかみ)である。
 次に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、次に妹大斗乃弁神(女神のおほとのべのかみ)、次に於母陀流神(おもだるのかみ)、次に妹阿夜訶志古泥神(女神のあやかしこねのかみ)である。次に伊邪那岐神(いざなきのかみ)、次に妹伊邪那美神(いざなみのかみ)である。
 上の件の国之常立神より以下、伊邪那美神より前を、併せて神世七代と称(い)う。
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2007年01月25日

フランス人の幕末日記2

 ここでは日本滞在を終えて帰国の途についたボーヴォワールがそのコロラド号の船上でしたためた日記の部分をご紹介します。当時のアジア情勢を彼なりの分析で書かれており、また興味深いものがあります。
L・ド・ボーヴォワール著「ジャポン1867年」より、
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引用開始
 楽しかった日本滞在は、ここにこうしてついに終わった。植物が大地にうっそうと生い茂った自然と、その住民が生来持っている親切な心とは、時がたつにつれてますますわれわれを喜ばせた。・・・・
 わたしの思い違いであればよいのだが、当地へ恐ろしい紛争(国内の対立)を持ち込んだのは西洋人で、この国のすべての階級をそそのかしている根深い革命も、大部分はわれわれの仕業であるとわたしは率直に信じている。

 約三十年前には、日本は、国家的階級制度をひとつの神聖な常態とした封建法の下に、ひとりで生き、栄えて幸せであったことを考えてもらいたい。 今日警戒の叫びは、かまびすしくこの全土にひろがって、上を下への騒ぎである。西洋文明の名にかけて、革命は日本の門戸に迫る。それが急激であればあるだけ一段と恐ろしい衝撃を戸口で支えるために、中世とわれわれの世紀というこの上もなく相反する二つの基礎的原理が、何ら過渡的段階を経ることなしに、まさに相闘おうとしているのである。

 シナについては、西洋は反道徳的で不名誉な阿片の戦いに初名乗りを上げたのであるが、さらにもう一度、イギリスのいいなりになって、平和な国民の中に不和の種を蒔かねばならぬ羽目に陥った。海の女王の商船にと同様、労働する人口にも、新しい必要な食糧を供給しなければならなかったが、それも、マンチェスターの汽缶がいつも煙をあげ、なおいっそう煙をあげるのを見るためであり、それ自身で自足している一民族に、われわれの生産物を強制的に買わせるためであったのである。

 従って日本を無理やり登場させ、われわれの意志を法となして通商を強制し、一民族に向って、「われらこそは最も強きもの、われらの世紀においては人間社会の一部が孤立して立て籠もることは許さぬ。われらはお前らに友好を強いにやって来たのである」といわなければならなかったのである。・・・・・
 1842年、シナにおけるイギリスの戦闘と阿片戦争の噂がにわかに伝わってきて、平穏な日本を不安に陥れた。日本は孤立して生きることしか望まず、そこでは神聖な掟が外国人に近づくことをひとつのけがれとして禁じているのであった。
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2007年01月24日

フランス人の幕末日記1

 L・ド・ボーヴォワール著「ジャポン1867年」という本から、維新直前の日本に来たフランス人青年の日記を少しご紹介してみましょう。
 その当時(慶応三年)の日本を、フランス人がどのように見ていたか、なかなか興味があります。
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引用開始
横浜 四月二十三日
 きょうわれわれは、はじめて日本の都市内部の探検をおこなった。まだ人気のない、黒焦げのもえのこりが目につく一部の地域は別として、この町が昨年十一月の恐ろしい火災のため完全に破壊されたとは誰も気づかぬであろう。
 道路は大変幅が広くて真っすぐだ。どの家も縦材でつくられ、ひと刷毛の塗料も塗られていない。感じ入るばかり趣があり、繊細で清潔かつ簡素で、本物の宝石、おもちゃ、小人国のスイス風牧人小屋である。

 日本国民は木材を見事に細工する。滑り溝を走る隔壁、縦の棒で出来た細い枠ぐみ、その格子の上には綿毛で覆われ、光を通す紙が貼られる。こうしたもので支えられる、軽いが丈夫な屋根を見るのは興味深い。一軒の家がこのような紙製の薄い間仕切り壁しか持てぬということは、わたしの思いも及ばなかったところである。
 日が暮れてすべてが閉ざされ、白一色のこの小店の中に、色さまざまな縞模様の提灯が柔らかな光を投げる時には、魔法のランプの前に立つ思いがする。・・・・

 われわれはすでに挨拶の言葉を話しはじめている。「オハイオ」はボンジュール。「オメデト」はわたしはあなたを祝う。「イルーチ」はきれい、魅力的。「セイアナラ」はまたお目にかかりましょうだ。
 それにこの民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。われわれのほんのわずかな言葉、ささいな身振りをたいへんに面白がる
 男たちは前に述べたとおり、ちょっとしたものを身に付けただけでやって来て、われわれの時計を調べ、服地にさわり、靴をしげしげと見る。そして、もしも彼らの言葉をまねて少々大胆すぎるほど不正確に発音すると、口火用の筋状に巻いた火薬に火をつけたように、若い娘たちの間から笑いがはじける。

 そこからわれわれは弁天の社へ赴く。薫香、香水、何千という奉納物、大きな鐘から取るに足りない手芸品、要するに清潔さを別にすればシナの寺塔と何一つ変わるところはない。ああ、あのように不潔、下品なあの中国を離れて間もない今、どんなに深い喜びの気持で日本への挨拶をすることであろうか。
 ここでは物みな実に明るく、美しい色調をもって眼に映ずるのである。何という対照であろう。健康を害う沼のどろどろした汚泥から、こんこんと湧き出る泉の、底の見える冷たい流れへ、死の平原から永遠の緑へ、または石ころを投げ、熊手を振るってわれわれを殴り殺そうとした民衆から、この地球上で最も温和で礼儀正しい住民へと転換するのである。・・・・
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2007年01月23日

歪められた日本神話5

神話学者の想像力について

 ここでは簡単に言うと、日本神話は、古いものほど新しく作られたものだという「架上説」を取り上げています。例えば、古事記でいちばん最初に現れる神は、実は最も新しく作られたものだというようなことです。
今回もそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
画像は永濯画の神話物語より
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引用開始
 日本神話でっち上げ説も数ある中で、特徴的なものに「架上説」といわれるものがある。これは特にアメノミナカヌシを論ずる人がたいてい依拠するもので、いまの学者では松前健氏などはその急先鋒といえる。
 古事記ではアメノミナカヌシは、いちばん最初に現れる原初神である。しかるに古代伝承というものは上へ上へと積み上げられて生成するものであるから、最も古い神とされるアメノミナカヌシは、実は成立は最も新しいのである、という考え方がその骨子だ。
 津田左右吉ももちろん、都合のよいところにはこの説を援用しており、例えばイザナギ・イザナミはアマテラスが作られた後、その親として後でこしらえられた神だと言っている。・・・・
 表現がきわめてわかりやすいのでその松前氏の言うところを見よう。

「・・・私の考えを率直に申し上げれば、皇室の本来的な王権の祭式といえば、大嘗祭です。それの縁起話として稲穂を持った皇孫の天下り、すなわち天孫降臨の神話ができる。天孫降臨神話は天皇家の基本的神話ですが、なぜ天孫が降臨するかということの原因として出雲神話が語られ、スサノヲの神剣奉呈が語られる。このスサノヲの出雲下りの原因として天岩屋戸の神話が登場するのです。
 天岩戸の神話がいったんできあがると、次には、なぜ太陽の神が隠れたのだろうかという原因の探求がなされる。そこでスサノヲの天界荒らしの話が語り出されるというふうに、結局、各説話が原因・結果の関係になって互いに結びつき、天孫降臨そのものがいちばん本筋で中核的な理念となっている。この原因として次々にそれ以前のこととして述べられている説話は、かえって新しくつけ加えられたものにちがいない。・・・」
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2007年01月22日

歪められた日本神話4

神話ツギハギ論者の忘れ物
 日本神話の権威といわれるような人たちが揃ってとっている態度が統合説のようです。これを読んでいて、何かしらの目的があって、わざわざ神話と皇室とを無関係にしたいという熱意?さえ感じられます。
今回もそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
画像は永濯画の神話物語より
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引用開始
 神話の物語の中で、前後矛盾したところがあればこれは別々の話をくっつけたものだとする説を、でっち上げ説の中でも「統合説」と名づけていることは触れた。
 この統合説にはもう一つの型がある。
 それは、神話の物語を、話の要素ごと話素・話根ごとに、あるいはまた各神格ごとにできるだけ細分し分断してみせて、それら断片だった古い伝承を、のちに宮廷で統合したのがいま見る神話であるとする考え方である。各地、各氏族それぞれの独立した伝承から都合のよい部分をつまみ上げて、適宜つなぎ合わせたものが日本神話であるという考え方だ。「矛盾」はほとんど問題とならない。・・・・・

 さてこの種の統合論者の代表格というべき松前健氏の言うところものぞいてみる。松前健といえば、・・・・・日本の神話伝承のこととなればまずはこの人にうかがいをたててみる、といった存在である。・・・・
 松前流統合説は、まったく珍談に類するのだが、これが学界の主流であることを考えれば真剣に向かわざるを得ない。この種の統合説にはまだヘンなところがある。

 統合説の論者(日本のほとんどの学者)は、挙げたところだけでなく神話全体を徹底的に分断細分して、それぞれを各氏族集団、職業集団、地方勢力のものとして振り分ける。先に挙げた荻原浅男氏もそうだし、少し前の人だが三品彰英といったこの方面の権威者もそうである。

 アマテラスとスサノヲの姉弟神については、荻原氏は宗像氏の祭祀伝承だとするのだが松前氏はアマテラスは宗像氏、スサノヲは大三輪氏と分断する。神話で姉弟として語られる二神まで、それぞれ独立の別伝承とするわけだから少々驚かざるを得ない。これだとスサノヲがアマテラスの弟だという伝承は両氏族ともに持っていなかったことになるのだが、とにかく松前説ではそうなる。

 さらに天の岩屋戸神話は伊勢の漁民の神話だと言うし、アメノコヤネは中臣氏のものだと言うし、天孫降臨の随伴神の組織などは百済の帰化人から借りたものだというし、ホノニニギ以下日向三代は南九州の隼人族の神話だと言う、という具合だ。
 不思議な話ではないか。
 これは言い換えれば、「天皇家の神話など存在しなかった」ということだ。
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2007年01月20日

歪められた日本神話3

切り貼り、ツギハギ、でっちあげ神話

 とにかく日本国の成り立ちを貶めるのが目的のような神話学者が多いのにはいやになります。これを元にして教えられるのですから、戦前からの神話になじんだ方々には驚きではないでしょうか。
 今回もそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
画像は米国教科書の挿絵、岩戸開き。アマテラスが自分の姿が鏡に写っているのを見ているところ。
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引用開始
 ― むかしむかし、どこかから、なにやらわけのわからぬ乱暴な男がやって来て、おどしつけて国をよこせと言いました。大国主は承知しました ― ・・・・
 どこかの乱暴者に国を渡す約束をさせられた。
 たったこれだけの話を語り伝える集団などあり得ないことである。
ここで改めて注意したいのは、「強引な接合」ならば、交渉にやってきた男たちにはもともと名前がないということである。
しかし、素性が知れぬ名前も知れぬ男どもの話などは、長く人々に語り伝えられるということがあり得ない。桃太郎にしろかぐや姫にしろ、名前がないのでは文字通り話にならない。・・・・

 大国主という名前だけは現れるが、これは無名と同じである。なぜなら、これがアマテラスや天孫の話と無関係である以上、大国主がアマテラスの弟スサノヲの直系子孫ではあり得ないからである。これはほかのいかなる神々とも関係がない。
それなら何者であるか。何者でもありはしない。そこらのただのオヤジにすぎない。そんな話は伝承されることはないのである。
 
 互いに無関係な別々の話を、適当に切り貼り細工をしてくっつけたのが記紀神話だとするこの種の説を、私は上品に統合説などと名づけているが、実際は切り貼り、ツギハギのでっち上げ説である。
 国譲りと天孫降臨だけではない。古代史や古代文学の専門家はほかの部分についてもほとんど統合説である。例えば上田正昭氏は、スサノヲを論じて言う。

「高天原での荒ぶる行為と、中つ国でのまったく逆の荒ぶるものを平定する行動と、この神の行動はあまりに背反する。(略)なぜこのように矛盾する神語りとして、スサノヲの神代史が形づくられたのか」。

 といった問題の立て方をする。ここでもまた「矛盾」と「形づくり」の話となる。矛盾があるから新しい作文だとする例の説である。ちなみに国譲りの話がでっち上げられたのは和銅元年(708年)以後だとしている。古事記の完成は古事記の完成は和銅五年(711年)なのだが。
 さて上田氏がここで言っているスサノヲの荒ぶる行為というのは、次のような行為を指す。
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2007年01月19日

歪められた日本神話2

神を忘れた神話学者

 今の日本では、ほとんどの神話学者が、日本神話を貶めるために様々の理由を創り出して、日本神話がでっち上げられたものだとした説を主流にしてしまいました。子供たちには、もっと素直にありのままを教えるのが大切ではないでしょうか。
今回もそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
画像はイザナギ、イザナミ(ボストン美術館蔵)
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引用開始
 古事記や日本書紀の特に神話部分を扱う人たちは、辻褄が合った話を見るとこれは辻褄が合うようにでっち上げたものだと言うし、どこか不合理不自然で食い違いのあるところを見ると、これは作り物こしらえ物だからだと言うことに決めているようである。だから彼らは「考える」必要がない。・・・・・

 記紀に書かれていて現に文字になっている事柄について頭から嘘だと言うのだから、その論文は読んでみてもあまり「学ぶ」という気分が起こらない。本分のほうもはじめから嘘でたらめと決めつけられた文書だから、学者の議論は多くの人を記紀神話から遠ざけるのに有効に働いた。
 考えてみれば、専門家がこぞって自分の専門への関心を人々から奪うことに熱心な分野というのは、ほかには一つもないのではないか。

 ・・・益田勝美氏は、国譲りの交渉が出雲で行われたのに天孫の降臨が筑紫であるというのは不合理で矛盾していると考える。私は別に不合理とも矛盾とも思わないが、しかしこれはまあ、ほとんど日本中の学者が矛盾だと思っているのだから、ここでは一応そうしてみる。
 さて、出雲での国譲り、筑紫への天孫降臨、これは矛盾である。そこまではいいとしょう。ところがここから話はおかしくなる。
 益田氏は、このような矛盾があるのはまったく別々の無関係な話を強引にくっつけたからだと言うのである。・・・
一応挙げておきたい。

「スサノヲの子孫である大国主(おおくにぬし)は出雲にあって国を治めている。子孫も栄える。そこにアマテラスの神勅がくだる。すなわち「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、我が御子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命の知らさむ国」というのである。オシホミミは天降ろうとする。
 ところがオシホミミは天の浮橋から戻ってしまう。そこで神々が協議し、アメノホヒを派遣する。
 ところがアメノホヒは大国主に媚びついてしまって復奏もしない。そこでアメノワカヒコが派遣される。そのアメノワカヒコも大国主の娘の魅力のとりことなり八年もの間復奏しない。アメノワカヒコには神罰が下される。
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2007年01月18日

歪められた日本神話1

そこには皇室を貶めたい意図が?

 ご存知のように、日本の神話も戦後は全く教えられることがなくなっているようで、おまけに神話が否定されたり、政治的な、イデオロギー的な意図が入り込んでいるとしか思えない解説等が主流となってしまっているようです。
 今回はそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
shinwa.jpg

引用開始
 ところで、日本神話についてものを考えるということは、古事記や日本書紀や古語拾遺や風土記や、そうした日本古典を主要なテキストとして考えるということにほかならない。
 本来政治的な主張・思想の面の相違・対立などはまったくかかわりのないはずの世界である
 例えば芭蕉や西行、枕草子、源氏物語などの研究において政治的保守派と、例えばマルクス主義者との間に激烈な対立が起こるといったことは、時にはあるのかもしれないがあまり普通ではないのではないか。
 はじめにも触れたがまことに残念ながら、日本神話についてはなかなかそうもいかない。

 日本神話は、現存する皇室のいわば先祖を語る物語であり、そして話が「皇室・天皇」となれば、現在の日本人にとっては、ほとんど政治的立場を二分する指標ともなっているからである。
 天皇の存在というものをあまり認めたくない立場の人々は、どうしても日本神話などは近頃のこしらえ物にすぎぬという意見に身を寄せたくなる。軽蔑的・冷笑的に考えたくなる。逆の人は逆になりがちである。・・・

 こうした事態になっている理由は、あえて言えば皇室の現存という事実にある。いつとも知れぬ遠い昔の、神話に語られる神々の末裔という王家は、こんにち世界に日本の皇室をおいてたった一つもない。ほかはことごとく滅びた。エジプト、ギリシャなどには神の末裔である王家はたくさんあったが、みな滅びた。世界中に普通だったのだが全部滅びた。残ったのは日本だけである。

 しかもそれが政論の主題となりうる。これでは日本人の神話に向う姿勢にひずみが生ずるのもある程度いたしかたもない。諸外国の学者は、政治的立場などまったく意識せずに、淡々と日本神話の研究をしている。・・・
・・・例えば福永光司(京都大学名誉教授)氏の『道教と日本思想』において、記紀神話が戦後、朝鮮の資料との関連で研究が進んでいることについて「戦後の学界を特徴づける革新的な動向であり、戦前の皇国史観的なタブーと呪縛の打破に、大きく寄与しているといえる」としていることにはっきり出ているし・・・
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posted by 小楠 at 07:58| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2007年01月16日

捏造元祖朝日新聞

従軍慰安婦も朝日新聞が火付け役

 珊瑚にKYの捏造報道はあまりにも有名ですが、従軍慰安婦も朝日が元祖です。そして、日本人を貶めるためには「詐話師」吉田清治の作り話まで新聞に掲載しました。吉田清治は戦後共産党から下関市議に立候補し落選しています。
片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、そのころの部分を見てみます。
虚偽報道.gif

大爆笑、韓国政府自爆画像も見て下さい。

引用開始
 ところで“従軍慰安婦”がクローズアップされたのは、教科書に記述され、それが検定合格となったからではなかった。これについては、すでに何冊か、かなりいかがわしい内容の書籍が出版されている。しかし、これが社会的に話題になることはさしてなかった。それが突然という感で社会性を帯びてきたのは、平成三年の夏から翌四年にかけてであった。その発端となったのが朝日の記事で、平成三年八月十一日付、大阪本社発行版の社会面トップである。

<思い出すと今も涙><元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く><韓国の団体聞き取り>の派手な見出しで、(ソウル十日=植村隆)の記事。リードは次の通りである。
「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』(伊貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。
 同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は『思い出すと今でも身の毛がよだつ』と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた」

 記事はこの女性の氏名を伏せているが、この年の十二月六日に彼女は金学順という名前を公表して、他の二人の元慰安婦と元軍人・軍属だった韓国人十六人と共に、日本政府に補償を求める民事訴訟を起した。・・・・
 こうして、“従軍慰安婦”は、にわかに社会性を帯び、朝日や毎日は精力的に肩入れすることになる。そして、そのキーワードは「女子挺身隊」「強制連行」→「従軍慰安婦」であった。
 しかし、このキーワードは破綻する。朝日の第一報とも言うべき既述の平成三年八月十一日付、植村記者の記事からして、すでに事実関係がいい加減で、かなりトリッキーなのである。

 記事は「女子挺身隊」の名で連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられたとしているが、現在「この女性は六十八歳」で、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」と記している。この女性とは金学順さんだが、平成三年に六十八歳といえば大正十二年生まれで、十七歳(後掲の記事によれば数え年)の時は昭和十四年である。 しかるにその頃、女子挺身隊は存在しないのだ。昭和十八年九月二十三日、国内必勝勤労対策が閣議決定され、販売店員、出改札係、車掌、理髪師など十七職種の男子就業を禁止し、二十五歳未満の女子を勤労挺身隊として動員するとしたが、「女子挺身勤労令」の公布は翌十九年八月二十三日である。

 女子挺身隊と騙されてとしたのは、日本政府の責任を強調するためであったろうが、ちょっと調べれば、あり得ないことは直ぐ分る。この記事は基本的な事実関係で、重大な誤りを侵しているのである。因みに「週間新潮」(9・4・17)によれば、植村記者は訴訟を起した「太平洋戦争犠牲者遺族会」の幹部(梁順任・常務理事=当時)の娘と結婚しており、夫人は同会で働いていたという。義父らの運動にある種の心情を抱いたとしても、あながち不思議ではあるまい。このような場合、報道の公正を保つために担当させないのが通常だろうが、朝日はむしろ積極的だったと映る。・・・・
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posted by 小楠 at 07:37| Comment(4) | TrackBack(1) | 反日マスコミ

2007年01月15日

朝日新聞の文革報道

先ずは文化大革命を道徳国家への道と評価

 私が学生の頃、朝日の紙面には紅衛兵の大きな写真が掲載され、絶賛のタイトルが躍っていたことを覚えています。あれは何だったのでしょうか。
文化大破壊を絶賛した朝日新聞の判断基準がいかにでたらめかがよくわかります。国民のレベルの方がずっと高いでしょう。社説などはもう止めなさい。
片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、そのころの部分を見てみます。
写真は当時の紅衛兵
紅衛兵.jpg
朝日が礼賛した文革の動画はこちらから。

引用開始
 1966年(昭和四十一年)に始まり、十年余も吹き荒れた中国の「文化大革命」が、如何に非人道的であり、非文化的どころか文化遺産まで破壊するすさまじい暴挙であったか、評価は定まっている。
 昭和四十一年五月二日付の社説は
「・・・・そこには、いわば“道徳国家”ともいうべきものを目指すとともに、中ソ論争の課題に答えようとする“世紀に挑む実験”といった意欲も感じられなくはないのである。今回の動きは、こうした観点からもとらえられねばならない」

 早くも朝日は“道徳国家”を目指す運動だと肯定的に受け止めたのである。当時、論説主幹は森恭三氏であった。氏はこの年に中国を訪問し、帰国して報告会を行い、その報告要旨が「文化フォーラム・ニューズ」の同年四月号に載った。・・・その中でこう述べている。

「中国は長年、四書五経を生活の規範としてきました。この四書五経を現在、毛沢東主義におきかえ、精神主義で人民を引張っていこうとしている。そればかりでなく、人間を改造とようと試みている。ここにソ連とは違った中国的な発想法と人間観がある。そして若干の抵抗はあるにせよ、現在のところ相当成功していると私は観察したのです。一般論としても、共産主義者が非共産主義者とちがった倫理観、道徳観をもっていることは、いうまでもありません。・・・・私は中国を『一種の』道徳国家として客観的に評価している

・・・・それにしても「客観的評価」というものはあり得ない。評価は主観的である。
 昭和四十二年四月二十日付の<人民解放軍を見る>という栗田特派員の一文。
「たっぷり七時間半の“半日入隊”―― 解放軍の兵士たちと昼食を共にし、迫撃砲の実弾射撃を見たのは、日本人記者としては恐らくはじめての経験であろう。『毛沢東思想で武装された解放軍』の姿を通じて“文化大革命”を理解してもらいたいというのが、中国側のねらいだったようだ」・・・
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posted by 小楠 at 07:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 反日マスコミ

2007年01月13日

朝日新聞の無責任豹変

ソ連共産党崩壊に厚顔無恥の豹変

 片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、ソ連崩壊時のあきれかえる記事を見てみましょう。前回の記事をご覧の方は目を疑うのではないでしょうか。朝日新聞が全く信用できないことがよく分かります。
こんな恥知らず新聞はもう日本から消滅させるべきです。
写真はベルリンの壁崩壊を祝ってダンスする両ドイツ国民
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引用開始
 アンドロポフ書記長は就任わずか十五ヶ月で1984年(昭和五十九年)2月に死去した。後を継いだチェルネンコもまた翌85年(昭和六十年)3三月10日に世を去った。そしてミハイル・ゴルバチョフの登場である。
 ペレストロイカ(改革、改造)とグラスノスチ(情報公開)を掲げた大胆なゴルバチョフのもとで、85年11月にはレーガン米大統領と六年ぶりの米ソ首脳会談がジュネーブで行われ、米ソ関係は雪解けの兆しを見せる。87年(昭和六十二年)12月のワシントンでの米ソ首脳会談では、INF(中距離核戦力)全廃条約に双方が調印した。そして89年(平成元年)12月3日、地中海のマルタ島で行われた両首脳会談で、歴史的な「冷戦終結」宣言へと進む。

 この間、同年夏には東独市民がハンガリー経由で多数西独に脱出する事態が起り、11月初めには遂にベルリンの壁が崩壊、12月末にはルーマニアで自由を求める民衆の暴動が起り、チャウシェスク政権が劇的に倒れる。同大統領は夫人と共に特別軍事裁判で死刑判決を受け銃殺された。
 チェコスロバキア連邦議会は、ドブチェク元共産党第一書記を議長に選出した。ソ連軍に押しつぶされた“プラハの春”の指導者の復活である。げに大雪崩の如き世紀的な東欧諸国の共産党支配の崩壊であった。

 かくして1991年(平成三年)8月、レーニン革命以来七十年余、ソ連邦を支配してきたソ連共産党が潰えた。そして、同年暮にはソ連邦が瓦解して新たな連邦、独立国家共同体(CIS=ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三共和国を中心に十二カ国が加盟)に変わるが、ソ連共産党崩壊について朝日は何と論じたか。平成三年八月二十五日付社説は次のように論述したのである。

「<自由な共和国による揺るぎない連邦>。スターリンの時代以来、ソ連の指導者は自国をこうたたえてきた。それは建前にすぎず、実はどの共和国も、共産党とそれが支配する軍、KGBなどの『鉄の腕』に締めあげられてきた。中央権力は民族の文化、言語を軽んじ、ときにその抹殺さえはかった。抵抗する人たちは迫害した。
 新連邦条約は何より、忌まわしい過去を清算し、これまで建前にすぎなかったものに実質を与えるものでなければなるまい

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posted by 小楠 at 10:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 反日マスコミ

2007年01月12日

朝日プラウダ日本版時代

激越な「北方領土の日」反対論

片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、昭和五十年代、朝日が一党独裁の超国家主義で共産主義の総本山ソ連への傾斜を露にしていた頃を見てみます。
写真は、スパイ、レフチェンコ氏の単独インタビューを掲載したリーダーズ・ダイジェスト
レフチェンコ.jpg

引用開始
 昭和五十六年に政府が二月七日を「北方領土の日」とすることを決めた時には、(二月四日)社説で
「1855年のこの日、下田で日露通好条約が締結され、日露両国の国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に決めた。四島が両国の平和的な話し合いで日本領土と認められた歴史から見て、『北方領土の日』を選ぶとすれば、妥当な日取りといえる」とし、「ソ連は、返還運動を『一部の策動だ』と非難している。これは誤っている」とした。

 だが、「しかし他方、東西の緊張が高まり、内外に右旋回が著しくなるなかで、『北方領土の日』をテコとした国民運動が誤った方向に曲げられたら、所期の目的を達せられなくなるおそれがある」「いたずらに『ソ連脅威論』であおったり、右傾化へのバネに利用してはならない。現状ではその危惧がないとはいえない」と、衣の下に本音が透けていた。

 そして、初の「北方領土の日」を翌日に控えた二月六日の「論壇」に<「北方領土の日」取り下げよ>という東海大学総長だった松前重義・日本対外文化教会会長の激越な一文を掲載したのである。それは、
「鈴木内閣が、閣議で『北方領土の日』を決定したことは、日本の対ソ外交における大きな失敗である」と非難するもので、その理由は「この決定は、改善の機運が高まった日ソ関係を再び緊張においやるだけではなく、肝心の『北方領土』問題の解決を一層困難なものにするからである」と言うにあった。

 国後、択捉、色丹の三島にソ連がわがもの顔で軍事基地を増強し、北方漁場では日本の漁業者が苦汁をなめている緊張のさ中で、日ソ関係は「改善の機運が高まっ」ているとは、超弩級の親ソ派でなければ口にできない言辞である。なにせ松前氏は、朝日と提携して、ソ連のレーニン革命六十周年を盛大に祝う事業を行ってさえいる。

 しかして松前氏は、ソ連との相互信頼こそが北方領土問題解決の前提だと強調し、にもかかわらず日本政府は、ソ連を刺激する「北方領土の日」を設けて、自ら信頼関係を壊すことをしたと言い、これは「日本政府が『北方領土』問題の解決を事実上放棄する宣言であった、と理解している」「閣議決定によって、『北方領土』を永久に残し、日ソ間の緊張を継続し、軍国主義への道を開こうという意図ではないだろうか」とまで激しく難詰した。
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2007年01月11日

朝日のマルクス気触れ

GHQ民生局作成の九条草案信仰の愚昧

片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、現代日本マスコミの癌、朝日新聞が、いかに共産主義気触れの文面であったかを見て下さい。
写真は60年安保闘争
anpo01.jpg

引用開始
 昭和21年3月8日付社説で<憲法草案と世界平和>と題して戦争放棄条項を称賛し、

「これを単に敗戦国としての現状肯定とみるのは浅い見方」だと論じた。そして再び

「日本が一方的に戦争放棄を憲法に規定しても、それだけで世界の平和が維持できぬことはいうまでもない」と述べ、

「従って、憲法にかかる条項を入れようとする以上は、日本人民として、世界平和維持に対する積極的発言が許されねばならぬのである。現在日本は聨合国の管理下にあり、政府当局としては、かかる発言はなお許さるべき時期ではないが、日本人民の声だけは、率直に世界各国民に伝えておきたいと思う」と念を押す。・・・・

 それにしても右の社説は、「国民」ではなく「人民」である。当時の論説委員の意識が奈辺にあったか、この表現はそれをよく表していると思う。また、この社説は一方で、世界の恒久平和を確立するためには、完全雇用を実現する世界を作らねばならぬとも言い、

「経済恐慌のない世界、失業の無い世界、過剰資源も、過剰滞貨も生ぜざる世界、生産力の無限の向上が社会の無限の向上に全く矛盾なしに照応する世界」と書き連ねて、

「この問題は、ソ連以外の国々において特に重大な意義を持つ。ソ連は既にソ連方式によりこれを解決しているからであると言い切って、アメリカは

「此の問題に対する理論的解決をせまられている」と書く。完全にマルクス経済の虜になっているのである。「人民」の用語を使うのもむべなるかな。げに、のちに反米親ソを鮮明にする朝日の源泉を見る思いがする。

※安保・戦争巻き込まれ論
安保改定ニュース動画
 昭和三十五年元日の社説は、
「いま目の前にある何よりも大きな収穫は、フルシチョフの完全軍縮の提案と、これに呼応した国連総会の同じ決議である」と、緊張緩和の夜明けが訪れたとばかりに微笑み、「危険そのものが、全世界を爆破しかねないほどに成長して、その巨大な危険の前には、永い争いの種であったイデオロギーの相違が、いよいよ小さく、色あせて来たということではあるまいか」、

東西の間には、もう『戦争』ではなく、『競争』という言葉だけが、意味をもち得ることとなってきた。それは別の面から言うなら、人々の心の中に『寛容』がしのび込み、『平和』が小さな芽をふき出して来たともいえよう」と喜んで、「平和共存」を強調した。・・・・
 だが、フルシチョフの提案は、明らかに米国の核に追いつき追い越すための時間稼ぎであった。・・・・
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2007年01月10日

朝日新聞の無恥変節

相哭からプロレタリア戦線機関へ

 片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、現代日本マスコミの癌、朝日新聞の恥ずべき変節の様子と、以後の反日ぶりを見て下さい。
 つい先日も満洲問題で、日本と日本人を貶めようとの悪意がまる見えの記事を掲載。過去に朝日の報道でどれほどの国益を損ねてきたことか。朝日新聞はなんとしても日本と日本人の敵になりたいのでしょうか。
kataoka.jpg

引用開始
※一億総懺悔から戦争責任者追及へ急変
 昭和20年8月23日付は<自らを罪するの弁>なる社説を掲げた。

「過ぐる十五日の正午、一億国民の耳朶を激しく打ち、国民の胸奥を強く揺すぶった玉音は何人も終生忘れ得ないところであり、必ずや子々孫々言い伝え、語り継いで永遠の戒めとするに相違ない」
と。そして次のように続ける。

「思うに事志と違って邦家が今日の悲運に立到ったについては、天の時、地の利ともに因をなしているとはいえ、人の和についてなお遺憾な点があったことは否めない。然らばこの点に対する責任は、決して特定の人々に帰すべきでなく、一億国民の共に偕に負うべきものであらねばならぬ。さりながら、その責任には自ら厚薄があり、深浅がある。特に国民の帰趨、世論、民意などの取扱に対して最も密接な関係をもつ言論機関の責任は極めて重いものがあるといわねばなるまい

 これは明らかに「一億総懺悔」論であり、とりわけ言論機関の責任の重さを強調しているが、何を懺悔すべきだとしたか。それは戦争に至った日本の歩みへの懺悔ではなく、・・・戦いに敗れたことへの懺悔なのである。
 ところが、それからわずか一ヵ月後、ダグラス・マッカーサー元帥を最高司令官とする連合軍の“戦争責任者”追及の動きが顕在化してくると、朝日は一億総懺悔も新聞の責任も投げ捨てて、9月22日付社説は<戦争の責任果して如何>なる表題で、・・・

遂に国民を大戦争の渦中に投じた我国指導者の責任こそ、この際、十分に糾明せられて然るべきであろう」

と豹変したのである。・・・そうして朝日は、勝者のお先棒をかついで戦争責任者追及に邁進することになるが、ここに、朝日の“東京裁判史観”の芽生えがあるといっても過言ではなかろう。
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posted by 小楠 at 07:26| Comment(6) | TrackBack(0) | 反日マスコミ

2007年01月09日

ハルの予防戦争

民主主義国の根本的な弱み

日本では「ハル・ノート」で有名なコーデル・ハルの考え方と、ドイツ、ソ連、日本等の情勢把握の模様を「ハル回顧録」の中に見てみましょう。
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引用開始
 当時(1930頃)英仏の力ははるかに勝り、ドイツははるかに劣っていたのであるが、どうしてドイツが優越の地位を占め、ひいては英仏の存在までもおびやかすようになったのだろうか。
 これは世人がいつまでも疑問とする問題の一つであるが、その理由は、英国もフランスもわざわいを事前に防ぐための戦争をしようとしなかったことにある。
 英国における孤立主義的な気分の強さは米国に劣らなかった。フランスが1923年にルールに侵入したのは予防手段をとろうとしたものであったが、これは英国のはげしい反対を招き、ポアンカレー内閣はこのためにつぶれてしまった。その後フランス政府は予防戦争に乗り出す勇気を失ってしまった。

 ここに民主主義国ないし人民が重要な発言権をもつ政府の根本的な弱みがある。こういう国はいろいろの面ですぐれた面を持ってはいるが、不幸なことに外からの危険が目の前にせまった場合、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと行動するという伝統をもっている。純粋な民主主義は、アテネの市民が文明への貢献としてつくり出したものであるが、この小さな国の国民は、外からの危険がせまった時に、戦うべきかどうかを人民投票に問おうとした。この指導性の不足、政府当局の指導ということに考えの足りなかったことが、アテネ人をとらえて奴隷にしようとした侵略者の乗ずるところとなったのである。・・・・

※日ソ不可侵条約締結
 ヒトラーがソ連を攻撃するだろうということは半年も前からわれわれは有力な証拠を持っていた。だから六月二十二日の知らせ(ヒトラーのソ連侵入)にもわれわれは驚かなかった。
 1941年1月、ベルリン駐在商務間のサム・ウッズから私に極秘の報告が届いた。ウッズは一人のドイツ人の友人を持っていた。この友人はナチスの反対者だったが、ドイツ政府の各省、中央銀行、党の高級幹部などに深く食い入っていた。この友人が、ヒトラーの司令部で、対ソ戦の準備についての会議が開かれているということをウッズに知らせたのは1940年8月のことであった。・・・・

 私はこの報告の内容をソ連大使ウマンスキーに伝えさせることにした。私はそうすることが、米国がソ連に対してとるべき正しい態度だと確信した。私はそのころ私の要請に応じて米ソ両国の意見の食い違いを調整するために、何回もウマンスキーと会談していたウェルズに、この情報をソ連大使に伝えるように頼んだ。ウェルズはその通りにした。・・・・

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2007年01月07日

石橋湛山の新聞批判

真の自由人、石橋湛山の新聞批判

ご存知の稲垣武氏著「朝日新聞血風録」から、東洋経済新報社時代の石橋湛山の言動についての部分がありましたので、掲載してみます。
写真は石橋湛山内閣、岸信介外務大臣、池田勇人大蔵大臣が見えます。
ishibashi.jpg

引用開始
・・・湛山の言論はその後も一貫して変わらなかった。日独伊三国同盟締結に当たっては昭和四十年十月五日付の社説「日独伊同盟の成立と我が国官民の覚悟」で、

「世間には、新聞に現るる欧州の戦況を読み、その戦争は、間もなく独伊の全勝を以て終結するかに思う者も少なくないであろう。・・・けれども実際の戦局が果たしてどう転回するかは、そう易くは予断できない」
 と安易な「バスに乗り遅れるな」論に警告し、米英との摩擦激化を予測している。

 この間、湛山はさまざまな弾圧を受けた。内閣情報局から厳重な注意を受け、削除を命じられることもしばしばあった。社内からも湛山を社長の座から退けて軍部に協力しようとの動きもあった。しかし湛山は、
「新報社の伝統も主義も捨てて、軍部に迎合するくらいなら、自爆して滅びた方が、遥かに世のためになり、新報社の先輩の意志にもかなう」と信じ、断固として節を曲げようとしなかった。同じころの大新聞各社の首脳の覚悟とは月とスッポンではないか。

 湛山こそ、真の自由主義者だったと言えよう。だからこそ不撓不屈の姿勢を貫けたのだろう。「ファッショに対抗する」ために近衛新体制に積極的に協力し、ミイラ取りがミイラになった大新聞の論説委員諸公とは雪と墨だ。その湛山が当時のマスコミをどう見ていたか。二・二六事件直後の三十六年三月七日付の社説「不祥事件と言論機関の任務/建設的批判に精進すべし」を読もう。

「彼等は口を開けば言論の不自由を云う。なる程、現代日本において言論の自由のないことは、同じく筆の職に従うところの記者(湛山自身)が何人よりもこれを心得ている。しかしながら世には現在の言論の許される程度において、言論機関が報道し、批判しうることが山ほどあるのである。強力なるものの前には筆を投げながら、弱いものに対して飽くまで追求するのは言論不自由とは関係ないのである。又一方的な報道をなして性急な暴力主義に拍車をかくるのは言論不自由からではないのである。」

 湛山はさらに「言論自由は言論機関が自ら闘いとるべしである。現時の言論機関の有力さを以てして、協力さえすればそれができないわけではない。言論自由が不足しているのは、彼等にこれを得んとする熱意がないからなのだ」と喝破し、
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posted by 小楠 at 13:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 反日マスコミ