2006年12月30日

レーリンクの東京裁判5

連合国の忌むべき戦争法規違反

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は日本人弁護団
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引用開始
C:東京裁判が非常に多くの批判を浴びたことはもちろんご存知でしょう。・・・
R:東京に滞在している間、私はウィロビー将軍とテニスをしました。彼はG2のトップでマッカーサーの献身的な崇拝者でした。オランダに帰国する直前、お別れを言うために彼を訪ねた時のことを覚えています。彼は私におごそかにいいました。「この裁判は史上最悪の偽善です」。彼は私に、こういう種類の裁判が開かれたことで、自分は息子に軍に入隊することを禁じるだろうともいいました。私は、彼にその理由を尋ねました。彼は、日本が置かれたような状況下では、日本が戦ったようにアメリカも戦うだろうと述べました。
 そしてまさに近年このことが証明されたのです。アラブ諸国が石油の供給をストップすると威嚇したとき、アメリカは彼らを武力で威嚇しました。アメリカの国防長官シュレジンガーは1974年1月の演説の中で、石油供給の保安は<軍事的>な義務であり、武力がそれを保護するために用いられるかもしれないと述べました。石油輸出禁止の時期の日本の石油状況を思えば、日本には二つの選択しかありませんでした。戦争をせずに、石油備蓄が底をつくのを黙認し、他国の情にすがるだけの身分に甘んじているか、あるいは戦うかです。それがウィロビーの理由でした。そんなふうに生存のための利権が脅かされれば、どんな国でも戦うだろうと彼はいいました。

C:東京裁判のどこが違っていれば、適切かつ公正な裁判になったのでしょうか? まず、法廷には中立国の人々が含まれるべきであったと思いますか?
R:はい、法廷には中立国ばかりではなく日本人も含まれるべきであったと思います。彼らはつねに少数派で、そのため問題を決定することができなかったでしょう。しかしとくに判事間の討議において、いろいろなことが噂されたりバイアスのかかった見解が出されたりしましたが、日本人判事がいれば他を納得させるようにそれらを批判できたはずです。たとえば日本の政府は、欧米の民主的ないし権威的システムとは非常に異なっていました。それは宮廷政治のシステムでした。この点について、日本人判事が出席すれば多くの誤りを避けることができたはずです。
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2006年12月29日

レーリンクの東京裁判4

本当に興味をもっていたのは真珠湾の復讐

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は演説するルーズベルト
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引用開始
C:東京裁判の政治的側面に話を移したいと思います。当時、裁判の遂行にあたって主たる目的の一つとして報じられたものに、「日本人に『犯罪はわりにあわない』ことを確信させること、二番目に・・・かつての東洋の敵と固い友情を結ぶこと」がありました。しかし、あなたは、裁判を行ううえでアメリカ人が本当に興味をもっていたのは真珠湾攻撃の復讐であった、という個人的な見解を述べました。
R:真珠湾攻撃はアメリカにたいへん強い印象を与えました。何千もの生命を犠牲にし、戦艦に多大な被害をもたらしました。調査委員会がアメリカで設置され、ショート将軍とキンメル提督に被害の責任があるかどうかが問題とされました。
 1941年11月にワシントンで交渉が行われたことを覚えていらっしゃると思います。日本の行動は、アメリカ、イギリス、中国、オランダの強い反発をさらに増幅しました。日本側にしてみれば、もっとも重要な問題は石油の輸出禁止です。日本はこの禁輸措置が棚上げにされることをもっとも望んでいました。11月26日、ワシントンの見解が鮮明になりました。インドシナ及び中国からの撤退が、経済的特権の代価となるであろうというものです。しかし、日本政府はそのような代価を支払おうとしなかったでしょうし、支払うことはできなかったでしょう。ハルの条件は戦争を意味し、彼もそれを承知していました。「事態は今やあなたがたの手にある」と彼はスチムソンとノックス(陸軍長官と海軍長官)に言いました。アメリカ政府は戦争が起こることを確信していましたが、日本によって開始されるように望んでいました。「日本が最初に戦端を開き、しかもわれわれがあまり甚大な被害を被らないように運ぶ必要がある」とハルは言ったのだと思います。
 それが1941年12月はじめの支配的な意見でした。野村、鈴木(来栖三郎の誤り、以下も同じ)両大使に対する日本政府の電文は解読されていたのです。
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2006年12月28日

レーリンクの東京裁判3

東京裁判の誤解による処刑
広田の処刑はいやな体験だった。


「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は起訴状朗読
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引用開始
C:あなたの「反対意見」における広田の無罪と多数派決定おける死刑判決の相違は、広田の「外交政策」の新しさの解釈にあり、それは裁判においては大部分の人に理解されなかったというわけですね?
R:そうです。それは大部分の人にとっては非常になじみのない考え方だったのです。つまり非常に新しい戦略であり、理解を得てはいませんでした。1936年の「国策の基準」の中にある「我が外交政策はもっぱら円滑かつ友好的方法で国家計画を遂行し」という項目は便宜的なものとして考えられていました。しかし、そのような解釈はこの政府文書が極秘であり、ひとり政府部門の指針とされていたという事実を見逃しています。・・・

C:当時、日本の世論は広田の場合を<除き>、東京裁判判決を大筋において受け入れていたと報道されています。『ニューヨーク・タイムズ』には「明らかに日本人は、広田は軍の支配のもとで道具としての役目を果たしたにすぎないと依然として考えている」とあります。そのような誤解にもとづいて絞首刑が執行されるのを見るのはおぞましい体験だったでしょうね。
R:はい。まったくいやな体験でした。しかし、後に事態はもっと劇的に推移しました。ご存知のように国連憲章の基本的な意図は人権の推進にあります。1966年の二つの人権に関する条約には自決権に対する人民の権利について同趣旨の条項があります。国連憲章の意図する万国共通の人権の認識、とくに民族自決の権利は植民地主義と相容れないものです。
 ですから、早急に植民地制度が廃止されたことは理にかなったことでした。1960年の植民地独立付与宣言において植民地関係は違法とされ、後に総会で犯罪とさえ決議されたのです。これによって、総会は民族自決のための闘争を促進することになりました。それは「自由の戦士」を適法と認め、国連加盟国に自由の戦士を支持するように求めたのです。要するに、国連は民族自決の推進のための「破壊活動」それ自体を承認したわけです。四半世紀も経たないうちに、国連は広田が死刑になったと同じ政策を採択することになったわけです。
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2006年12月27日

レーリンクの東京裁判2

被告と日本人弁護団の態度

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は東京裁判法廷全景
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引用開始
C:東京裁判の被告の態度はニュルンベルグとはずいぶん違いますね。ニュルンベルグの被告は国家ではなく、自分の生命、自分自身の立場を守ろうとしたのですから
R:そうです。・・・ドイツでは、人々はなるべくヒトラーから距離をとり、彼の行為は忌むべきものだといっていました。ヒトラーを守ろうとするものは誰もいませんでした。・・・・
日本人は、アジアと世界で、アジアを解放し、世界を変えるためにとられた日本の行動を擁護しました。そして、こうした観点から彼らは行動を起こしたのです。

C:日本人被告は、いわば一種の宿命論者だったのでしょうか。あえて有罪となることを覚悟していたのですか。自分が絞首刑になろうとなるまいと大きな問題ではなかったのですか。
R:ある人が日本人弁護団の態度を称して、「被告の墓に優雅に花を手向ける」人々と言いました。ある意味でこれは事実です。彼らは諦めているようでした。彼らは戦争に負けたのだから、自分たちの行動が非難されることがわかっていたのです。彼らはただ、ある観点からは自分たちの行動が理解され、おそらくは正当化されることを世界に示したかったのです。

C:被告たちは自分たちの威厳や名誉を保とうとしていると感じましたか。つまり、彼らは臆病ではありませんでしたか。
R:臆病? いいえ、そういう人はひとりもいなかったと思います。彼らには威厳がありました。二年以上、彼らの正面にすわっていて、言葉はかわさずとも、彼らの動きやしゃべっている様子はわかりました。彼らには信条がありました。・・・・あなたが日本人の内側に身をおいてみれば、彼らの多くが大衆に尊敬されていたことが理解できるでしょう。
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posted by 小楠 at 07:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判

2006年12月26日

レーリンクの東京裁判1

レーリンク判事の東京裁判人物像

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
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引用開始
※判事
C:東京裁判の実施に話を戻しましょう。判事団はどのように構成されたのですか。
R:最初、判事は九人しかいませんでした。後で二人加わったのです。ひとりはフィリピンから、ひとりはインドからです。・・・インドからパルが加わりました。彼は真にアジアの態度を代表する判事でした。フィリピン判事は完全にアメリカナイズされていました。アメリカと協力するフィリピンの支配階級に属し、アジア的なところはまったくありませんでした。

C:判事のなかに他に優秀な法律家はいましたか。
R:実際にわれわれの間には大きな年齢差がありました。東京に着いたとき、私は39歳でしたが、大部分の判事は若い中国の判事を除いて、おおむね60歳前後でした。彼らは自国では裁判所の判事をしていました。したがって彼らは国際法廷が国内法廷とは違うということ、国際共同体は一国の共同体とは異なるので、国際法は国内法とは違うということを理解するには年を取りすぎていました。国際法はそれぞれ異なる制度の間で機能するものです。それは、立法者のいない、判事のいない、主権者のいない法的共同体であり、垂直的ではなく水平的な社会関係なのです。したがって、国内法では有効なことが国際法では必ずしもそうとは限らないのです。

C:外交官あるいは軍のエキスパートが加わっていましたか。
R:オーストラリア人の裁判長、ウイリアム・ウェッブ卿[クインズランド高等法院判事]は政治的な力をもった人物でした。ニュージーランドのエリマ・ハ―ベイ・ノースクロフト氏は[最高法院]判事でした。ロシアのI・M・ザリャーノフ[陸大法学部長]氏は軍事裁判所の将軍でした。最初のアメリカ人判事のジョン・P・ヒギンズは、おそらく自国で判事をしていたのでしょうが、政治家でもありました。アメリカでは判事は政治的理由で任命されるのです。しかし裁判が始まるとすぐに辞任してクレイマー氏に引き継ぎました。彼は軍の司法組織の責任者をしていた人物で、それほどの権威ではない、そう思います。
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2006年12月25日

特攻宿舎勤務婦人の便り

特攻隊員の父母の許へ知らされた消息

田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
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引用開始
 この日は突入に成功し、辻少尉、今野少尉、白石少尉、稲葉少尉らは、ついに帰ってこなかった。親しくつきあった、基地の特攻隊宿舎勤務の婦人より、辻少尉の消息が父母の許に知らされた。

「若葉茂る新緑の候となりました。
 皆々様には、お元気にておくらしの御事と推察致します。
 私は、ふとした御縁により、ご子息俊作様とお知り合いとなり、今度、俊作様、特攻隊として出撃遊ばされる時、最後の事を頼まれたのでございます。
 俊作様が、特攻隊として屏東から当地花連港に前進していらっしゃって、お泊りになるところに、私は勤めております。兵站宿舎でございます。
 その時は、辻少尉殿って、どういうお方なのか、名簿のみで存じ上げませんでしたけれど、第一回出撃をなさって、二、三日過ぎたある日、事務所にお見えになり、色々とお話などして居るとき、沖縄へ航進中、航空帽の上からしめている、日の丸の鉢巻を海に落した、とおっしゃりますので、では私が作って差し上げましょうと、心をこめて作って差し上げたのが、ご懇意にしていただく初めでございました。

 その日、私の家の方に遊びにいらしていただきました。私にも丁度、俊作様と同い年頃の弟がやはり、航空兵として入隊して居ますので、実の弟のような気が致し、及ばずながら母上様に代わって、できるだけのお世話をさせていただきました。
 特攻隊の皆様方は、魂の純粋な方ばかりで、今日、明日死んで行かれる人とは思われない、朗らかな方ばかりで、暗い顔の表情をした特攻隊員の方には、一人もお目にかかった事はありません。

 どうして同じ人間が、しかも若い青年の方が、あのようにニコニコの笑顔で、聖人も及ばない、偉大な心境で死んで行けるのか、不思議に思うくらいでした。
 本当に、男らしい、ほれぼれするような方ばかりでありました。
 皆さん方は、心のやさしい、親思い、兄弟姉妹思いの方ばかりでありました。
『魂がきれいで、心が温かい』から『祖国』のためにと、大切な生命を捧げ、特攻隊に志願して、ニッコリ笑って出撃され、勇敢に死んでゆかれたのだという事をわからせていただきました。」
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2006年12月23日

航空特攻作戦の終幕

教え子たちの遺言

田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
こちらに神風特別攻撃隊のニュース映像が掲載されています。

引用開始
 四月二十七日午後十一時三十六分、胴体に300キロの爆弾を抱いて、九七戦の操縦桿を握り、特攻三機編隊が暗黒の沖縄の空に向って、宮古島を離陸した。
 敵戦闘機の攻撃を受け、一機不時着、一機敵弾を受け、宮古島に不時着、大橋伍長は単機で進攻、二十八日午前一時過ぎ、熾烈な対空砲火を巧みにぬって、慶良間列島付近の輸送船に体当たり、瞬間、大爆発を起こした。十八歳の若い生命を散らした。

 屏東、北港での訓練、初の特攻命令、嘉義駅での別れと、過ぎ去った思い出が脳裏をよぎって、自爆のニュースで胸が張り裂ける思いであった。

★最後の便り(台湾より)
「謹啓、初春の候と相成り、その後、御両親様には、お変りなくお暮しのことと思います。
お父さん、お母さん、喜んで下さい。祖国日本興亡のとき、茂も待望の大命を拝しました。
 心身ともに健康で、任務につく日を楽しみに、日本男児と、大橋家に、父と母の子供と生まれた喜びを胸に抱いて、後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、文化国家を再建してくれる事を信じて、茂は、たくましく死んで行きます。
 男に生まれた以上は、立派な死に場所を得て大空の御盾となり、好きな飛行機を、我が墓標と散る覚悟であります。
 親より先に死んで、親孝行出来ない事をお許し下さい。
 お父さん、お母さん、長生きして下さい。
 お世話になった皆様方に、宜敷お伝え下さい。
 この便りが最後になります。
 昭和二十年三月二十四日
 遠き台湾の特攻基地より
 茂  父上様 母上様
 身はたとえ南の空で果つるとも とどめおかまし神鷲の道
 大命を拝して十八歳 茂」
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2006年12月22日

「特攻突入す」の無電

「決死隊」と「特攻隊」の死生観
田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
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引用開始
 まず、決死隊の死生観について述べてみる。
 作戦任務を命ぜられて第一線に出征する軍人は、みんな死を覚悟して出征した。その覚悟「悟り」の土台は――
第一は、愛する親兄弟姉妹妻子を守るため、軍人は死を覚悟して第一線に出征した。

第二は、生まれ育った懐かしい我が家と故郷を守るため、死を覚悟して出征した。

第三は、わが祖国日本の平和を願い、お国のためにと死を覚悟して出征し戦った。

第四は、「死」を覚悟して第一線に出征しているが、「死にたくない」「怖い」という戦場心理が誰にも働く。そして、自分は助かるかも知れないと思う。しかし、怖い、死にたくない、という不安と恐怖心をもちつつも、自分がいつどのように死を迎えるか、誰にもわからない。

第五は、だから軍人は「愛国心」と「使命感」と「誇り」によって、死の恐怖を克服する。そして勇敢に戦い、多くの人が戦死した。

 だから「通常作戦」に参加する殆どの軍人の写真には、厳しさと殺気が感じられた。

 では「特攻隊」の死生観はどうか。
第一、特攻隊員は、特攻命令を受けて、長い人は半年、短い人は即時出撃、戦死して任務を達成するので、死は確実であり、時間の問題であった。特攻隊員は,自分がどのようにして死ぬかを納得していた。

第二、特攻出撃命令を受け、出撃すると、
1、運よく敵艦に体当り成功して死ぬか
2、運悪く敵戦闘機に撃墜されて死ぬか
3、敵の対空砲火器に撃墜されて死ぬか

 このことを特攻隊員は最初から承知しているから、出撃までの時間を大切に生きていた。
 これで「助かるかも知れない決死隊」と、「死んで任務を達成する特攻隊」の悟りの次元が全く異なることを理解出来ると思う。
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2006年12月21日

中国人石平氏の天皇観

「天長地久」の皇室と日本民族の幸福
  
 石平著「私は毛主席の小戦士だった」から引用してみます。
 石平氏は「中国民主化運動の世代」といわれている1980年代最初の80年に大学一年生となった方で、1988年に来日、以後日本で評論活動をされています。
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引用開始
 かつて、よく京都を散策したから、京都御所へは何度も行った。・・・
 ヨーロッパやロシア、あるいは中国などの大陸国家から来た見物客であれば、おそらく、誰もが、「エンペラーの宮殿」である、この御所の質素さと無防備さに、驚かずにいられないであろう。
 同じアジアの、広い溝と威圧的な城壁で囲まれている、北京の紫禁城の勇姿を前にしては、この御所というのはせいぜい、どこかのご隠居様が、余生を楽しむために造った、茶室付き別邸程度のものであろう。

 しかし、京都御所は、それらの金城鉄壁の居城や、壮大華麗な宮殿よりも、はるかに勝っている点が一つある。
 それはすなわち、御所のかつての主である天皇家は、今でも、この日本国の万世一系の皇室として、最高の地位にとどまっているということである。

 ヴェルサイユ宮殿に君臨して、「朕は国家なり」と豪語したフランスのルイ14世の死去から七十数年後の1792年に、ブルボン朝の王政が革命の嵐の中で崩壊し、その翌年には不運のルイ16世が王様の身でありながら、ギロチンで命を落とした。ロシアでは、クレムリン宮の主人である、ロマノフ朝も1917年の革命において滅亡し、ニコライ2世一家の惨殺によって、その血統まで絶たれたのである。
 そして、わが中国の歴史において、北京の紫禁城を皇居に使ったのは、明と清という二つの王朝であったが、言うまでもなく、今は、そのいずれも存続していない。・・・・

 天皇家は、京都の一角にある、あの「みすぼらしい」御所に悠然と鎮座して、多くの激動の時代を乗り越え、東京遷都を通して現在に至るまで、その最高の地位と最高の品位を保ち続けてきたわけである。
 イギリスの王室やタイの王室など、日本の天皇家と類似するような存在は他にもあるが、しかしそのいずれもが、歴史の悠久さにかけては、日本の皇室の比ではない。
 言ってみれば、世界中でもっとも「貧相」な「宮殿」に住んでいた日本の天皇家こそ、この世界史上における生命力のもっとも強い王家なのである。
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2006年12月20日

中国に見た反日の嵐

理由なき憎悪の理由探し

石平著「私は毛主席の小戦士だった」から引用してみます。
 石平氏は「中国民主化運動の世代」といわれている1980年代最初の80年に大学一年生となった方で、1988年に来日、以後日本で評論活動をされています。
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引用開始
 中国へ頻繁に帰るようになったのは、1997年以後である。・・・・
 国内で会った中国人たちが、日本のことを口にする時、誰もが憎しみの感情をむき出しにし、軽蔑と敵視の態度を露にしていることに、私はただただ、驚くばかりだった。・・・・
 食事会とかの社交の場や友人同士の集まりなどで、私という「日本帰り」が同席していると、必ず一度は話題が「小日本」のことに移っていく。
 たいていの場合、私に対する質問から話が始まる。「日本での生活はどうですか、たいへんでしょう」「日本人によく虐められているのでしょうか」「留学生は皆、小日本のことを憎んでいるのでしょうね」といった質問が、まず飛んでくる。

 答えに窮した私の顔を見て、皆は物わかりのよい微笑を浮かべながら視線をそらして、「質問攻め」を打ち切る。が、今度は彼らの間で、日本への罵倒合戦が炸裂するのである。

「あんな国、絶対許せないわ。昔から悪いことばかりやっている」と、Aさんは憤懣を言う。

「そうだよね。侵略戦争で、どれほどの中国人を殺したか」と、Bさんが相槌を打つ。

「だから俺が前から言っているさぁ。原子爆弾でも何発か使って、日本を地球上から抹殺すべきだ」と、C君は興奮して言い放つ。

「原子爆弾だけではダメだ。恨みを晴らすには、やはり一人ずつ殺した方がいい。今度、東京大虐殺をする時、俺の腕前を見せてやるぜ」と言いながら、D君は片手で人の首を切る仕草をしている。

「しかしね、日本人というのはそもそも進化が遅れている人種じゃないかしら。半分は人間で半分は豚なのね。やはり人類進化の不良品だわ」と、Eさんが皮肉たっぷりの「珍説」を展開する。

「そうしたらさ、今度日本に攻め込んで全員殺した後に、日本をそのまま、中国人のための養豚場にしようじゃないか」と、D君がわざと真面目な顔をして「提案」する。・・・・
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2006年12月19日

中国共産党の虚偽指導

欺瞞と虚偽の世界で育った私たち

石平著「私は毛主席の小戦士だった」から引用してみます。
 石平氏は「中国民主化運動の世代」といわれている1980年代最初の80年に大学一年生となった方で、1988年に来日、以後日本で評論活動をされています。
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引用開始
 物心がついた子供の時代から、私たちが国家と大人から受けた教育はこうであった。
 曰く、偉大なる共産党の指導をいただくわれわれの社会主義中国こそは、この世界中でもっとも繁栄した先進国であり、もっとも優れた平等社会であり、人民の権利がもっとも保障されている真の民主国家である。この素晴らしい社会主義国家に住むわれら中国人民は、どこの国の国民よりも幸せに暮らしていて、どの時代の中国人よりも人間らしく生きている国民なのだ――。

 それとは対照的に、西側資本主義国家では、偽者の「民主」や「自由」を標榜しながらも、極楽天国のような生活とやりたい放題の自由を満喫しているのは、ほんの一握りの資本家階級にすぎない。その傍ら、99%以上の労働者・人民は食うや食わずの極貧の生活を強いられていて、資本家階級が牛耳る国家から残酷無道な抑圧を受けながら、暗黒の世界の中で奴隷同然に暮らしているのだ――。

 だからこそ、社会主義は人類史上もっとも優れた社会体制であり、共産主義は全人類の憧れる、もっとも素晴らしい理想である。共産主義を唱えるマルクス主義は、この世界における唯一の真理であり、マルクス主義の中国版である毛沢東思想は中国人民の信仰すべき神聖なる理念である。そして、この毛沢東主席こそは、日々人民の幸福を願っておられる慈悲の救世主であり、中国人民を永遠に正しい道へと導く史上最高の偉大なる指導者なのである――。

 毛沢東時代の「共産主義教育」の教義となったこのような言説は、真実のかけらもない100%のウソ偽りであることは言うまでもない。
 事実はむしろその正反対であって、いわば「99%以上の労働者・人民が食うや食わずの極貧の生活を強いられているような残酷無道な暗黒世界」とは、そのまま毛沢東時代の中国人民の置かれた現実そのものであった。
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2006年12月18日

日本国憲法とユダヤ人

日本国憲法は、ワイマール憲法の丸写し

 モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」という本があります。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
 1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画したという方の本です。
写真は日本国憲法作成の中心人物ケーディスkades.jpg

引用開始
 ユダヤ人の一人として将来の日猶関係のためにも、是非とも日本人の皆様の前に白日の下にさらしておかなければならない日本国憲法の本質についてご説明申し上げたいと思う。・・・・
 日本国憲法はワイマール憲法の丸写し、しかもかなりずさんであるといった方が正確であろう。
 ワイマール体制の支柱となったワイマール憲法は、ご存知の通り、ユダヤ人で内相も務めたヒューゴ・プロイス以下三名のユダヤ人によって作られたものである。また日本国憲法はこれもご存知の通り、ユダヤ人ケーディスを中心としたGHQのニューディーラーによって僅か二週間という短日時に作られたものである。・・・・

※民主主義とは何ら実体のない虚構概念
 われわれが日本の戦後改革の支柱としたのは、「自由」「平等」であり、それのコーディネーターとしての「民主主義」という言葉であった。
 ここで大切なことは、「自由」「平等」はそれぞれ一つの確たる概念であるが、「民主主義」という言葉は単なる言葉にすぎず、何ら具体的概念ではないということである。

 われわれのいう「民主主義」は古代ギリシャ時代にいわれた「デモクラシー」とは何の関係もないものであることをご説明申し上げねばならない。われわれのいう「民主主義」とは、「自由」と「平等」の非両立性をカバーするための結節語にすぎず、なんら実体のないものなのである。

 日本人の皆様はお気づきだろうか。日本国憲法に「自由」「平等」ということばは、というより概念は、ふんだんに盛り込まれているが、「民主主義」という言葉は一語も発見できないのである。・・・
 「自由」と「平等」が互いに両立し得ない概念であるという事実、それは真理というべきものであろうが、案外一般には理解されていない。もし「民主主義」という言葉が巧妙に両者をコーディネートして結合させていなかったら、この「自由」「平等」の非両立性はもっと早く見やぶられていたであろうと思われる。・・・・

 戦後三十年このかた、「民主主義」というものを批判した論調は皆無といえよう。ただ部分否定的に批判したものはあるかも知れないが、その場合でも大抵「民主主義」そのものを批判するというよりも、むしろ日本人の「民主主義」に対する受け取り方、対応の仕方に誤りがあるかの如き論調が多く、やはりここでも「民主主義」は聖域に祭られているといえまいか。日本国憲法に憤懣をぶっつけるが、「民主主義」は聖域に祭り上げておくといった態度にタブーの存在を許す半分の責任があると思うが如何。

 この「民主主義」を絶対的な無謬性を誇る善玉の神と考えている戦後の日本人は、この考えにどんな論理的根拠を添えているというのであろうか。
 はっきりいえることは、なんらの論理的根拠を伴っていないということではないか。これはやはり、一種の信仰ではないだろうか。この辺でもう一度ふり返ってみる必要がありはしないだろうか。憲法のタブー性を考える前に「民主主義」のタブー性を考えてみる必要はないであろうか。
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2006年12月16日

東京裁判の本質

何故満洲事変以後が侵略戦争なのか

 モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」という本があります。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画したという方の本です。
写真はミズリー艦上の降伏文書調印式Missouri.jpg

引用開始
 さて、この東京裁判の結論で非常に奇妙なことが一つある。裁判の本質にメスを入れる前にこの点を明確にしておくことは重要である。
 この裁判の結論は、満州事変以後を「日本帝国主義」の「侵略戦争」であるとしている。
 その理由はハッキリしている。これら満洲事変以前の戦争が米英仏等の利害と衝突しないからである。否、むしろ利害が一致していたのである。
 ・・・・一方、満洲事変、支那事変、大東亜戦争は議論の余地なく、米英仏等と利害関係が対立するものである。これを徹底的にとっちめない法はない、ということである。・・・・・

 この東京裁判は日本の戦後史の始まりというにふさわしく、非常に深い意味をもっている。戦後日本の価値感覚その他が戦前と180度の転換をみせたといわれるが、その原点はこの東京裁判にある。・・・・
 東京裁判によって持ち込まれたマルクス主義の階級闘争史観は、この裁判に続く日本国憲法の持ち込みによって日本国民の価値観を180度転換させるまでの大きな影響を及ぼすことになった。
 東京裁判の本質はマルクス主義の唯物史観における階級闘争論の持ち込みにこそある。この二元論の持ち込みにより、以後、日本の内部は収拾のつかないような内戦状態に陥ることになったのである。

 もともとこれを持ち込んだ勢力の目的とするところは、唯物史観にある如く国家を内部闘争により破壊、覆えさせることにあるのであるから、当然の帰結であるといえよう。東京裁判は先ずそのような思考パターンを植えつける目的に利用されたものであり、それに続く日本国憲法の持ち込みにより階級闘争史観という二値論理に市民権を与えてしまったということができるであろう。・・・・・

 その方法は、日本国民を二極分化させることから始まる。即ち、マルクス主義の階級闘争史観は、すべての歴史は支配階級と被支配階級の間における階級闘争の歴史であると主張するものであるのはご承知の通りであるが、この論法を持ち込むのである。
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posted by 小楠 at 08:01| Comment(6) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判

2006年12月15日

A級戦犯は犯罪者ではない

大掛かりな歴史の偽造

モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」という本があります。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画したという方の本です。
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引用開始
・・・ 従来なら一方的にこれら「A級戦犯」にすべての戦争責任を負わせて当然とするものが圧倒的であった。戦後三十数年、ようやく日本国民もこのまことに大掛かりな歴史の偽造について疑問をもち始めた。
 元来、ここに言う十四人の「A級戦犯」は国内法による裁きを受けた結果ではなく、単に戦勝国が裁判という名のもとに恣意的に演出したものにすぎず、したがって日本国民としてはこれら十四人を犯罪者扱いするものではない。

 国内法は、明らかにこのような戦争処理のための勝者の恣意的な復習儀式に優先するものである。この復習儀式が国際法により認められたものであればともかく、明らかにそのような国際法は存在しないそうであれば、国内法と国際法の優先順位の問題も全く出て来ない。

※人間獣化計画
・・・ ここで戦後史の跛行性というのは、経済面の高度成長と精神衛生面の虚無性との共存のことである。
 経済面の高度成長の要因は技術革新が一方の雄であることは異論がないであろう。しかし、この技術革新による経済の高度成長を側面からバックアップしたものが、逆説的かも知れないが、精神衛生面の虚無性であることは否定できない事実である。・・・・・
 精神衛生面での虚無性が何故経済成長にプラスするのかということは、にわかに理解できないかも知れない。では一体精神衛生面の虚無性とは具体的にどういうことなのか、考えてみたいと思う。
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posted by 小楠 at 07:40| Comment(17) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判

2006年12月14日

戦前の家族制度

義理人情は世界に類なき美徳

今回も、モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」から引用します。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
写真は日露戦争の恩人ヤコブ・シフ
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引用開始
※すばらしかった戦前の家族制度
・・・かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとしたとき、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。
 アルベール・トーマは、「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。何故ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はない。家族が暖かく迎え入れてくれるからである。この家族制度をなんとかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」といっているのである。・・・・

 ここでまた日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。・・・・・・・
 さて現在のユダヤ人社会では、戦前の日本にあったようなすばらしいものではないにせよ、家族制度というものは固持されている。恐らく世界一のものではなかろうか。
 親と子は、多くの場合同居している。これは決して住宅難のせいではないのである。子は、年老いた親の面倒をよくみるのである。特に親孝行という言葉は持っていないが、将来できるかも知れない。また、親類づきあいも密である。・・・・

 ユダヤ人は福祉ということはあまり考えない。これは家族制度のアンチテーゼだからである。福祉とはただ食わせるだけといえるかも知れない。老人ホームに例をとると、そこでの老人に保証されているのは餓死しないということだけである。生き甲斐というものは何も保証されていない。然るに家族制度の枠内の老人は子の成長、孫の成長を楽しむという生き甲斐をもつことができる。どちらがいいかは、議論の外であろう。

 日本では戦後、ニューディール派の改革で姦通罪というものが外されてしまった。これも家庭の不和を増長させる重大な要素であると考えられ、家族制度の破壊を狙ったものであると私は考える。ユダヤ人の社会では、現在でも姦通ということはまずあり得ないのである。十戒において厳に禁ぜられているからである。
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posted by 小楠 at 07:35| Comment(9) | TrackBack(3) | 書棚の中の日本

2006年12月13日

戦前の天皇制攻撃

ユダヤ人の教条主義的誤り

 今回も、モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」から引用します。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
ここに出てくるマルクスもユダヤ系で、ついでにレーニンもユダヤ系ということです。
写真左端フルシチョフ、五人目スターリン、右隣はモロトフ
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引用開始
 ・・・ここで日本人に謝らなければならないのは、戦前において我々の認識不足から、天皇制を最大限に攻撃し、なんとかこれを打倒しようと努力してきたのも我々ユダヤ人である、ということなのである。全く穴があれば入りたい気持ちである。
 フランス革命でフランスの君主制を打倒したのが、我々の最初の大事業であった。続いて、ヨーロッパの主な君主制を打倒することが至上任務となるのである。

 何故そうなるのかということは、マルクス主義の国家論をお考え頂ければ十分と思う。マルクス主義というものは、ユダヤ人が自己の民族的解放事業のための道具としてあみだした虚構論理なのである。マルクス主義の国家論はご存知のように、国家とは破壊、覆すべきものであるということを根本原理としているものである。
 国家というものがあるためにユダヤ人は過去数千年、迫害、虐殺をくり返されていたものである。自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、国家というものを覆すことが唯一の方法であったのだ。・・・・

 この国家の破壊という大事業の前に最も邪魔になるのが君主制という制度であったのだ。そのため特に、君主制の打倒ということが最大の目的となったわけである。

※美濃部達吉の天皇機関説はユダヤ人が吹き込んだ
 さて、日本の天皇制打倒のための最大の攻勢はゲオルグ・イエリネックによって始められたのである。・・・
 マルクスの時代は、国家の破壊は階級闘争という虚構論理によるものを主力としていた。しかし今世紀に入ってからは、マルクス式に言えば、上部構造よりの破壊を考えついたのである。
 
 つまり、法理論により国家機能を弱体化させることである。特に君主制を骨抜きにする作戦である。このために利用されたのが美濃部達吉である。イエリネックは美濃部達吉に巧妙に天皇制破壊、弱体化の戦術を授けたのである。・・・・
 ところが、イエリネックの深遠な狙いはその協力者、美濃部達吉の無知によりかなりあいまいなものにされてしまった。・・・・
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posted by 小楠 at 07:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2006年12月12日

類例のない君民共治

世界に類例のない君民共治

 続いて、モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」から引用します。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
写真はGHQ総司令部
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一連の皇室関連記事に関して、切捨て御免!トノゴジラ様の記事が参考になります。

引用開始
 一般にユダヤ人が天皇制の類い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって、ユダヤ人全部が知ったわけではない。・・・・
 天皇が開口一番、自分の事はどうなってもいいから国民を救ってほしいと切り出した時、マッカーサーは驚天せんばかりであった。この席にルソーが同席していなかったのが真に残念であるが、西洋の君主というものはそれこそマルクスの言う支配者、搾取者である。一般大衆は被支配者、被搾取者に甘んじなければならない。

 西洋の君主は、大衆から収奪した莫大な財産を持っている。戦後GHQが天皇の資産十六億円と発表した時、日本人はキョトンとしていた。つまりGHQは西洋の君主並に日本の天皇も収奪した財産をもっているはずであると考えたから、それを直ちに国民の前に見せ付けたわけであろう。ところがこれを聞かされた日本人は一様に、そういう感覚の持主もいるのかと内心驚いたということである。しかし西洋の常識としてはこれは奇異でもなんでもなく、至極当然なことだったのである。

 かような西洋の君主は、いざ革命、戦争、政変等のあった場合は、直ちに自己の生命の保証と財産の保全を求めて亡命を計るのを常とする。したがって、マッカーサーも最初天皇が訪問の希望を述べた時、非常にきびしい顔をしていたという。いってみればそれは当然のことであろう。日本の天皇もいよいよ生命の保証と財産の保全のためどこか適当な亡命先の斡旋を懇願に来るのであろうとマッカーサーが考えたのも、無理からぬ話であろう。

 しかるに前述の如く、天皇は開口一番、自己の生命や財産の保証ではなく、国民の財産や生命の保証を求めたのであった。国民を質入して自己の保身を計る西洋の君主とは逆に、自己を質入して国民の救済を求めたということである
 マッカーサーたるもの、すべからくルソーに対して自分が味わった感激を報告すべきであろう。・・・・・
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posted by 小楠 at 07:46| Comment(6) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本

2006年12月11日

天皇制は最大の財産

日本民族の持つ最大の財産は天皇制である

 モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」という本があります。1979年に発刊された本ですが、平成11年(1999)に復刊されました。
 著者の紹介には「1907年、ウクライナのオデッサ生まれ。父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。
 レーニン没後、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリネックと親しかった。
 ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。独ソ不可侵条約が結ばれるや、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命。「サッスーン財閥」の顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画した。戦後十数回来日、現在は日本研究を楽しみに余生を送っているという」。と書かれています。
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引用開始
※天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった
 尊敬する日本の皆さん、私はユダヤ人の長老として、・・・・我々ユダヤ人が犯したところの大きな誤り、第二次大戦終結後の日本人の精神的空白につけ込んで我々が持ち込んだところの諸々の誤れる思想について、その過誤の原因および内容的非論理性、反真理性について詳しく分析し、それが如何に日本人にとって有害なものであるかということを実証してみたいと思う。・・・・・

 これによって一日も早く、尊敬する日本人が戦前あった世界に燦たる民族的長所を復活させて頂きたいのである。何故ならば、それが即ち我々ユダヤ人の理想でもあるのだから。
 日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。
 かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことを言っている。

 「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである

 ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。
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posted by 小楠 at 08:08| Comment(19) | TrackBack(4) | 書棚の中の日本

2006年12月09日

吉田松陰留魂録

今日は、吉田松陰の遺書とされている「留魂録」の中から、ご紹介したいと思う部分を抜き出してみたいと思います。
引用は古川薫著「吉田松陰 留魂録」です。
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引用開始
[第一章]
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 十月二十五日             二十一回猛子
・・・・・後略
 
[第八章]
 今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
 つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。

 私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
 なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。
 十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。
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posted by 小楠 at 11:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2006年12月08日

尾崎秀実の南方誘導

尾崎の支那事変長期化活動

 コミンテルンのスパイ尾崎秀実は、近衛の「蒋介石を相手にせず」声明に我が意を得て、猛烈に言論活動を開始します。これに対立するのが、外務省東亜局長の石射猪太郎で、新任の宇垣一成外相に意見書を出し、宇垣もこの方針で和平を進めようとしましたが、結局辞任してしまいます。
 尾崎と石射の違いをそれぞれの論文から見てみましょう。
鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」から引用してみます。写真は尾崎秀実
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引用開始
 さて、尾崎は昭和十二年十二月、朝日新聞特派記者として上海でも活躍し、三月帰国した。この間にトラウトマン和平工作は失敗し、一月十六日、蒋介石を対手とせずとの声明が出ていた。

 尾崎は自分の欲するままに時局は進んでいるとほくそ笑み、この上に立って猛烈な言論活動を開始した。支那事変を長期化する活動である。申すまでもなく尾崎は朝日の一流の支那事変担当記者であり、近衛首相の政策ブレーン昭和研究会の支那問題担当のキャップであり、当時のマスメディアの寵児であった彼は、縦横無尽にその健筆を揮った。次はその一端である。

「我々は事変の初期に於ては、この事件の持つ重大性を予知して、両国のために速なる解決と和平の手段を発見すべきことをひそかに希うたのであるが、その後事件が現在の如き決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、もはや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外には無いのである。面をふることなき全精力的な支那との闘争、これ以外に血路は断じてないのである。
 同じく東洋民族の立場から、又人道的な立場から支那との提携が絶対に必要だとする主張は正しいかもしれない。しかしながら現在の瞬間に於てこれを考え、これを説くことは意味をなさないのである。敵対勢力として立ち向かうものの存在する限り、これを完全に打倒し了せて後、初めてかかる方式を考うべきであろう」
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posted by 小楠 at 07:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係