2018年02月16日

尾崎秀実の手記2

尾崎秀実の手記の一部を紹介しますが、現在に当て嵌めるため、
「吾々」を「共産党、共産主義者、反日憎日」に、
「モスクワやソ連」を「シナ共産党、北朝鮮、南朝鮮」に、
「帝国主義」を「資本主義」に置き換えて読んでみて下さい。
現在進行中の謀略と日本の無防備が露わになってくるでしょう。

 「吾々グループの目的任務は、コミンテルンの目指す世界
 共産主義革命遂行の為、日本に於ける革命情勢の進展と之
 に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類
 の情報並に之に関する正確なる意見をモスクワに諜報する
 ことにあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要に
 してその支柱たるソ連を、日本帝国主義より防衛する為、
 日本の国内情勢殊に政治、経済、外交、軍事等の諸情勢を
 正確に且つ迅速に報道し且つ意見を申し送ってソ連防衛の
 資料たらしめるに在るのであります」

 *現在も、政党や政治家の他に諮問委員会とかの政治中枢
  と、公務員組織、法曹界、教育界、反日TV、新聞等や、
  NPO等、多くに網の目が張り巡らされているように思
  います。
posted by 小楠 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 共産主義の実態

尾崎秀実の手記1

日本共産党の本質を知るための参考として、
スパイ・ゾルゲ事件で有名な元朝日新聞・尾崎秀実の
手記の一部を紹介します。今では志位や小池が、下記
のこの本音を嘘八百で覆い隠し、万人受けしそうな
綺麗ごとを言いますが騙されないようにしましょう。
尾崎.png

 コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を
 目的とする共産主義者の国際的組織であります。・・略・・・

 現にその日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年のいわゆる
 27年「テーゼ」、昭和七年のいわゆる32年「テーゼ」など、
 その他をもって日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来る
 べき革命はブルジョア民主主義革命でその革命は急速にプロレタ
 リア革命に転化するものとし或いは革命の性質は急速にプロレタ
 リア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、
 天皇制の打倒をスローガンとすることを規定しております。

 従ってコミンテルンは世界革命の一環として我が国においても
 共産主義革命を遂行してわが国体を変革し、私有財産制度を廃止
 しプロレタリア独裁を樹立し、この過程を通じて共産主義社会を
 実現せんとするものであることは勿論であります。・・・・・
posted by 小楠 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 共産主義の実態

2018年01月18日

コミンテルン32年テーゼ

1932年にコミンテルンが、支部の日本共産党に与えた指令書、方針書から、
日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼをご紹介します。
国際共産党日本支部 日本共産党中央委員会

 日本帝国主義によって火蓋を切られた強盗戦争は、人民大衆を一の新たなる歴史的危機にー世界虐殺戦の終結以来の最大の危機にー投げ入れつつある。満州の占領、上海及び支那のその他の地方に於ける血腥き諸事件、一般に日本の強盗帝国主義の企てた全軍事行動は、現在の世界経済恐慌の諸関係の下に最大の帝国主義強国の一つによって行われた最初の、広汎な計画を持つ軍事的進出である。開始されたこの帝国主義戦争は、資本主義世界の一般的危機並びに経済恐慌の全深刻さ、世界帝国主義のあらゆる対立の未曾有の先鋭化を反映している。それは最も重要な意味を有する新たな政治的震撼の全時機の端を開いた。最近の日支事変の結果として、異常に複雑化した国際情勢が生まれた。それに関連して、国際共産党の一切の支部、第一に日本の革命的プロレタリアート並びにその共産主義前衛にとつて、最高度に責任ある諸任務が生ずる。

 日本帝国主義の現在の領土拡張戦争は、日本帝国主義の発展の以前の諸段階の総てと直接の関連を持っている。異常な攻撃欲をその特徴とせる強盗的日本帝国主義は、植民地略奪と戦利品とを、資本蓄積と自身の強固化との最も主要な源泉の一つとして来たのである。

 日本が資本主義の軌道に移行せる際に天皇制―反動的な半封建的官僚と大土地所有者とーが勝利したことは、帝国主義列強に対する日本の不平等な地位(高圧的条約)を廃除せんための初期の闘争をば、弱い隣接民族を略奪するための闘争という形態を取らしめ、近代的日本帝国主義の強盗政策のために道を拓く結果となった。

 日本帝国主義は1895年には朝鮮を支那から切り離し、台湾を領得し、支那に3億5千万円の償金を課した。義和団の蜂起の鎮圧に際しては、日本帝国主義はこれをその強盗政策の為に利用しつくした。1904年の戦争の結果ツアールのロシアが南満州で租借していた領土をロシアから奪い去り、南満州鉄道をその掌中に収めた。それに引き続く時期に日本帝国主義は朝鮮を最終的にその植民地となし、アジア大陸に於けるその将来の進出のための前哨に収めた、等々。

 世界大戦時には、日本帝国主義は更に一層の領土拡張をなした。1915年には支那に向って支那を日本の植民地に陥れんとする有名な21か条の要求を提出した。1922年のワシントン会議に於いて、日本帝国主義はアメリカの圧迫の下に、これらの要求の可也の部分を放棄し、山東から撤兵する等々のことを余儀なくされた。しかし日本帝国主義は決してその企図を思い切ることなく、その強盗計画の実現の為に適当な時機を俟つために、その力を集めてきた。

 ブルジョア=地主的日本の増大しゆく征服欲は、間断なく他の帝国主義大国の意図と要求とに衝突した。支那に於いて日本の開始した戦争は、かかる諸対立を一層激化した。太平洋沿岸、就中支那では世界大戦以後世界資本主義の諸対立が特に先鋭化しているが、これらの地方は現在では益々帝国主義的強盗の利害関係の険しい衝突地域となりつつある。支那に於ける戦争は、正にその勃発の最初の日から、新たな世界虐殺戦の迫り来る危険を、日本及びその他の国々の間に於ける(帝国主義列強の総てを網羅するに至らずとするも)直接の軍事的衝突またはかかる衝突の極度の強行的準備の迫り来る危険をかってない程に現実のものとするところの諸勢力を切って離した。

 それと同時に、世界帝国主義の政策にとって顕著な要因をなすものは、現在では、ソビエト同盟に対する戦争のために帝国主義列強の統一戦線を作らんとする企画の強化である。我々はプロレタリア独裁の国に対する世界帝国主義の武力干渉の直接に差し迫れる危険に当面している。この戦争の道具は国際連盟である。ソビエト同盟に対する戦争によって、国際ブルジョアジー及び彼らの代理人たる社会民主主義者は何よりも先ず国際プロレタリアートがその解放のために、恐慌からの革命的活路のために行う闘争を、挫折せしめようとしている。一切の国々に於ける勤労大衆の眼前には二つの世界、一方では腐朽し、死滅しつつある資本主義と、他方では益々堅固になり勝利しつつある社会主義との闘争が開始されている。資本主義のこの上なく激烈な現在の世界恐慌を背景にしてソビエト体制の一切の長所は特に鋭く浮かび上がり、社会主義建設の成果は特に輝かしい光の中に現われている。プロレタリヤ独裁の国の工業化は、未曾有の速度を以って前進しつつある。農業の社会主義的改造と、密集せる共同経営化と、またこれらを基礎として行われつつある階級としての富農の廃除に関しては、非常な大成功が遂げられた。社会主義経済の基礎の建設は完了した。第二次五カ年計画を実現するための諸前提は既に出来上がった。しかもこの計画によって階級なき社会主義社会の建設は充分に確保され、人類の歴史に一の新たな時代の端が開かれるのである。

 現在の経済恐慌によって、大衆的失業と、言語に絶する窮乏と残酷を極むる搾取とを忍ぶべく定められている資本主義諸国の勤労大衆にとっては、ソビエト同盟は、恐慌からの革命的活路のため、資本主義撤廃のための闘争の必要を示す雄弁な実例であり、確乎たる証明である。だが帝国主義者共の計画は、要するに社会主義建設を失敗せしめ、ソビエト同盟を絞殺して、総ての国々に於ける労働者農民大衆を更に一層無慈悲に搾取するため、労働者農民大衆の経済的及び政治的奴隷化の体制を堅固化するために道を拓かんとすることにある。特に目立っているのは二個の帝国主義的憲兵ーヨーロッパの憲兵たる帝国主義フランス及び極東の憲兵たる帝国主義日本ーの同盟であって両者共にソビエト国家に対する出兵の発頭人たる役割を受け持って居るのである。

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posted by 小楠 at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 共産主義の実態

2012年09月27日

反日マスゴミ打倒

安倍新総裁誕生を祝福します。

今から真の日本国民は、朝日、毎日およびその系統の反日新聞の不買運動で、

これらを叩き潰す行動を起こしましょう。

そして安倍総裁と将来の安倍政権を徹底して支持しましょう。

彼ら反日マスゴミは戦前は鬼畜英米で戦争を煽り、敗戦後はGHQに尻尾を振ってきた敗戦利得者、

そして現在は支那共産党の代弁者となり下がった事大主義そのものです。

従軍慰安婦などとありもしないものを捏造し、靖国参拝を支那共産党に煽って問題にしたのも朝日です。

我々日本国民は、大多数のまともな国民に、日本の弱体化に奔走するこれらマスゴミとの徹底抗戦を開始す

べき時になりました。

一国民が出来ることは、反日マスゴミの不買、TVスポンサーへの抗議で、

これらマスゴミを壊滅に追い込むことです。

共感できる皆様、大々的な行動を起こしましょう。
posted by 小楠 at 21:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年07月29日

祖国への帰還

いつもご覧頂いて有難うございます。夏季の間、更新をお休みさせて頂きます。また再開後もよろしくお願いします。

釈放そして祖国への帰還とモハンシン将軍の回想

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの最終抜粋です。
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引用開始
 五月初め、私は、釈放されて娑婆の空を仰いだ。その空気はほんとうに甘かった。五月二十六日、私はチャンギ―下番者二百名の輸送指揮官を承って、帰国の船路についた。全く冥土から、現世に奇跡の「回れ右」をする思いであった。六月二日、又見る日を思いあきらめていた祖国の佐世保に上陸した。リュック一個を背負って。でもその中には、シンガポールのIIL代表ゴーホー氏夫人が贈ってくれた時計とチョコレートと、煙草罐一杯のライターの石が忍ばせてあった。佐世保の街を通して見る祖国は、正視に堪えない惨めな姿ではあったが、矢張り、限りなく懐かしく、いとほしかった。慈母の懐のように。

 嗚呼! 私は生きて祖国の大地に両脚を踏まえることができた。しかも、あれ程の工作に部下の一人の戦犯犠牲者も出さずに。思えば、それもこれも、Fメンバー諸君や何十万現住民や俘虜の、INA将兵の功徳のお陰である。私は、生涯これを忘れてはならないのである。凡根を戒めつつ、報恩に心がけねばならぬと思う。

四十年前の私の回想・INA将軍モハンシン

・・・・ 最初に私が彼と会った時、彼の顔面は大きな希望で輝いていた。だが、最後に会った時の彼は、苛酷なまでの幻滅と悲哀、そして落胆にさいなまれた形相で、顔は止めどなくほとばしる涙で覆われていた。傑出した人物との出会いで、最初と最後の印象は、我々人生の中で忘れ難い重要なものである。私にとってこれらの印象は特に重要なもので、私の心の目にはいつも生き生きと残っている。・・・最初の印象は非常な楽しみと、うれしい驚き、最後の印象は強烈な悲壮と、いじらしい光景であった。・・・・・
 当時の我々は三十を僅かに過ぎた若輩で、横溢する愛国の熱意と冒険心をかかえ、光輝ある大戦のためには生死をかえりみず凡ゆる危険を冒す用意があった。我々両人の意気は、愛国の信念と計画、希望と計画、それに歴史的冒険の夢ではち切れんばかりに満ちていた。・・・・

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posted by 小楠 at 06:55| Comment(17) | TrackBack(5) | 書棚の中の人物

2008年07月25日

グローリアス・サクセス

英局長との会話

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はチャンドラ・ボース氏の軍刀を返還する筆者、左はボース氏の実兄S・Kボース氏
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引用開始
 十一月の初め、私は、厳重に手錠と捕縄をかけられた上、一個分隊のグルカ兵に物々しく警備されて、クアラルンプールの刑務所に転送された。施錠の手に、毛布に包んだ身の回りの品を持たされ、駅の待合室の土間に、しゃがませられ、現住民旅客の眼に晒し者にされた時の口惜しさは、得も云われぬものであった。
 この刑務所には、八百名の現地人囚人の中に、七十一名余りの日本軍戦犯容疑者が収容されていた。既に死刑の判決を受けた二名の獄友も含めて。憲兵と刑務所関係の司政官が主であった。チャンギ―と異なって、取り調べが終わり、容疑の晴れた者は、苦役を課せられたが、大部屋に収容せられ、食事の量は豊富であった。刑務所外の苦役(官舎の薪割り、椰子の実のガラ拾い等)は、娑婆に飢えている私達には、却って楽しかった。その上、留守のボーイやコックの同情から、白いパンや煙草にありつけることも、一同の人気を買った。自由を失った者には、こんなささやかな自由でも、その有難さが心に沁みるのである。自由に浸っている者には、自由の有難さ否自由を満喫していることさえも意識出来ないのではあるまいか。・・・・

 平穏な日々が続いて、年も改まり、三月を迎えた。帰国の好運を夢見ることが多くなった時、突然訊問の呼び出しがかかった。・・・・
 禿頭大柄の局長は、五十の坂を越していると見えた。意外に柔和な態度と口調で、マレイの探偵局長であることを告げた後、F機関の工作経緯について、三日間にわたって訊ねたいから、素直に答えてくれと前置きした。
 バンコック以来の工作経過、印度工作、サルタン工作、スマトラ工作、マレイ青年連盟工作、ハリマオ工作、華僑工作について克明な訊問が続いた。訊問の内容、態度から、戦犯容疑の追及が目的でないように察せられた。F工作が成功した原因、事由を掘り下げようとするもののようであった。現地人関係者やINA、IIL首脳との接触経緯や彼等の発言内容、彼等に対する私の人物評等を重視した訊問が多かった。マレイ探偵局或いは総督の植民政策の反省と今後の施策参考資料を狙っていると思われた。かく察した私は、和やかに、誠意をもって素直に応答した。
 最後の日、訊問が終わった後、思い入れる口調で「貴官の工作は、真にグローリアス・サクセスであった。敬意を表する。1942年の初めから、英当局は、貴官の工作を重視して、デリーに大規模の対抗機関を特設して、情報収集と対抗施策に活動した。・・・・・
 そしてややきびしい口調で、「貴官の詳細な応答は多とするが、なんとしても納得しかねる疑点がある。・・・・

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2008年07月24日

チャンギ―刑務所

復讐の鬼ワイルド大佐

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。

引用開始
 シンガポール島の東岸に、施設されているこの刑務所ほど、騎士道と武士道を誇る東西両文明国民が、怨讐をむき出しに応酬した場はないであろう。・・・・
 凶悪犯人を護送する物々しさで、私が、この獄門を潜らされた時、三千名を越すわが将兵や軍属が、ABC数個のブロックに区分されて収監されていた。私は洗いざらしの、半そで、半パンツの獄衣、裸足の惨めな姿に変えられた。獄衣の背番号はPCW(戦犯容疑者)六千代であった。
 刑務所の有様は、さながら地獄の涯、賽の河原を思わせるものであった。畜生を扱うに等しい警備兵の仕打ち、飢餓ぎりぎりの乏しい粗食、陰険苛烈な訊問、神の裁きを詐称する前時代的な復讐裁判、獄の一角で次々と執行される絞首刑等、陰惨を極めた。将兵は骨皮同然に痩せさらばえ、渋紙のように陽焼けし憔悴していた。明日をも計り難い己の運命、くずれ去ったわが陸海軍、破れ果てた焦土の祖国、安否の程も知り難い肉親を思って懊悩していた。

 私は幸に、承詔必勤、一億総ざんげ、石をかじり、木の根を喰んでも、占領下の苦痛に堪え抜いて、国土の再建を期していた終戦直後の祖国と同胞を知っていた。(その後、あさましく変貌したが)そして、四億民衆を挙る印度のすさまじい独立抗争やINA将士の剛毅な闘魂を、レッドフォートで見聞してきた。その上、印度を初め東南亜諸民族独立必至の機運と彼等の日本に対する感謝と理解と親近の情を皮膚に感得してきた。・・・・
 私は一年有余を、この刑務所とクアラルンプールの刑務所に過ごした。この間、三百名に近い先輩や僚友が、獄門に下り、絞首台に上った。・・・
 読者は、山下、パーシバル両将軍降伏談判の寧真を見て頂きたい。そのパーシバル将軍につき添って、通訳を努めている白ルの青年参謀が、ワイルド少佐―終戦時大佐に昇任―である。
 大佐は、戦前日本に駐在した経歴がある武官で、日本語を解する俊秀である。降服とともに俘虜の身となり、戦友英豪兵とともに、日本軍に駆り立てられて、映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道の工事に駆使せられ、日本軍に対して骨髄に徹する恨みを抱いた一人であった。その大佐が、この地区の日本軍に対する戦犯追及の立役者になっていたのである。・・・・

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2008年07月22日

印度独立前夜

英印度海軍乗組員の一斉反乱

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はNHK特別番組「進めデリーへ」よりINA将校を裁く英軍事法廷シーン。この裁判を契機に印度の独立運動は一気に燃え上がった。
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引用開始
 英本国政府は、事態のいよいよ重大な発展を憂慮し、リチャード氏を団長とする下院議員団を印度に派遣して、英帝国の進退に資する現地調査に当たらせた。
 しかし英帝国の面目上、この軍事裁判を直ちに中止することはむつかしかった。単に面目だけでなく、中止は却って勝に乗ずる印度民衆の政治要求を激化する懸念もあった。印度側の目的は独立であって、INA裁判の中止はその闘争戦略だからである。英当局のINA裁判の取扱はいよいよ厄介千万な難題となった。
 オーヒンレック総司令官は、改めて声明を出した。「INA将兵の英皇帝に対する反逆は以後問責しない。拷問、殺人の非人道行為のみについて問責する。その数は少数に止まる」と。これをもって印度民衆の反抗を静め、軍事裁判を、英帝国の面目を最小限つくろいながら、早く打ち切りたいと意図したものと思われた。しかしその期待は、またまた甘かった。英帝国は、更に痛烈な反撃を喰う結果となった。
 二月十一日、第二回軍事裁判の判決が下された。反逆罪を不問に付し、暴行罪だけを取り上げ、被告アブドール・ラシード憲兵少佐に七年の刑を判決した。
 この報に接した印度民衆の憤激は再び爆発した。十二日、先ずカルカッタにおいて、抗議のデモが開始され、全市のゼネストに発展した。警官隊の発砲によって、死者十九名、負傷者二百数名を出し、二十六日に至ってようやく平静に帰した。
 その騒動が収まりかけていた二月二十一日のことである。英帝国印度統治史上、未聞の大不祥事が勃発、英当局の心胆を奪った。すなわち、英海軍の一部である印度海軍乗組員の一斉反乱がそれである。ボンベイ、カラチ、カルカッタ港に凱旋帰投した印度海軍乗組員の印度人将兵が呼応し決起したのである。
 ボンベイにおいては、ゴットフリー提督の旗艦ナバタ号を初め二十隻に上る艦船を反乱軍将兵が押さえてしまった。その上同港基地の兵器庫まで占拠する始末となった。カラチでも、旗艦ヒンドスタン号が、反乱軍に押さえられた。
 何れも占拠艦船の艦砲に砲弾を装填して、もし英当局が武力弾圧に出れば、直ちに全艦砲撃をもって酬ゆると宣言した。これがため、英当局は手も足も出せない羽目となった。

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posted by 小楠 at 07:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物